みよやたつ雲も煙も中空に さそひし風のすえも残らず


見てみなよ、あれほど煙も雲も空高く巻き上げていた風も、今では消えてしまったなあ。
 


冷泉隆豊の辞世の句です。隆豊は昨日の大内義隆の家来だった人で、前回取り上げた大内義隆に最後まで付き従って戦死しました。

 

この歌はは和歌として非常に上手い歌であり、辞世の句としては最もよくできたものの一つです。

 

隆豊の家系は大内氏の庶流で、母方を羽林家の冷泉家とする冷泉興豊が、母の名字を冒して冷泉を称したことに始まるので、御子左家(二条家)の分家です。

 

現在冷泉家の本家は京都の同志社大学の隣にあります。

 

御子左家は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて著名な歌人である藤原俊成・定家父子が現れてから、歌道の家として確立していますので、流石の出来栄えと言えるでしょう。

 

しかし芸能の才能だけで、戦後期の世を渡っていけるほど甘くはなかったようで、歌人の家の生れである彼が重用された事も義隆が政治に関心を失っていた証拠の一つです。

 

隆豊は歌人らしくないほど勇敢に戦いましたが、根もとが腐ってしまっていた大内氏が崩壊するのを止めることは出来ませんでした。

 

 

〇プロフィール

 

冷泉隆豊の辞世の句。冷泉隆豊は戦国時代の武士。戦国大名大内氏家臣。大内義興に早くから仕え、その没後は子の大内義隆に仕えた。大永7年(1527年)、安芸国に進出して仁保島、国府城で戦う。天文20年(1551年)、大内氏の家臣の陶隆房が決起。隆房は周到な根回しを行っており、文治派以外では、義隆に味方する者はほとんどなかった。大内義隆は山口を脱出し、石見国の吉見正頼を頼ろうとしたが、嵐で船が出せず、長門国の大寧寺へと入る。陶軍が大寧寺を包囲すると大内義隆は自害し、隆豊は介錯を務めた後、自身も陶軍の中に突撃して討死にした(大寧寺の変)。武勇に秀でていただけでなく、和歌にも堪能であった智勇兼備の士と言われており、その忠臣ぶりは、高く評価された。