討つ人も討たるる人ももろともに如露亦如電応作如是観


殺す人も殺される人も同じだね。露のように雷のようにはかなく消えていくものだよ。観音様が様々に姿を変えて現れなさるように、この世の中は決して定まらずに変化するようなものなのだな。


大内義隆の辞世の句です。

 

最後の「如露亦如電応作如是観」は金剛経の一句です。万物は流転するという無常を悟ったような、和歌となっています。

 

大内義隆が攻めた月山富田城は日本史を通して最強の城の一つで、毛利氏が三重に包囲して兵糧攻めでやっと落としたほどの城で、いかに大内氏でも力押しでは落とせず、以後大内氏の国力は減退していきました。

 

月山富田城を力で落とそうと思ったら、特殊兵を満載した戦闘ヘリが四機は必要です。

 

この歌の訳のキモは「応作」をどう訳すかでしょう。

 

「応作}本来の意味は、仏・菩薩が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れることです。

 

しかし、ここでは、もっと広く世界の法則のようなものについて詠んでいるように思えます。

 

むしろ自然(ピュシス)の法則(ノモス)とギリシア語にでも訳した方がしっくりくるのではないでしょうか? 

 

大内義隆の晩年は下に書かれているように、政治に関心を失い趣味に入れ込んでいました。

 

松平定信が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記したほどです。

 

西国の巨人大内氏も、亡びる時はあっけないものでした。

 

 

〇プロフィール

 

大内義隆の辞世の句。大内義隆は戦国時代の武将。周防の守護大名・戦国大名。周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主。永正4年(1507年)11月15日、周防・長門の太守で、大内氏の第30代当主である大内義興の嫡子として大内氏館で生まれる。毛利氏や尼子氏とたびたび戦い、安芸を完全に勢力下に置いた。天文11年(1542年)、出雲に遠征して月山富田城を攻囲するも、配下の国人衆の寝返りにあって尼子晴久に大敗した(月山富田城の戦い)。しかも、この敗戦により養嗣子の大内晴持を失ったため、政治的関心を失い、もともと関心の強かった文人的傾向が強まり、文治派の相良武任らを重用した。このため、武断派の陶隆房や内藤興盛らと対立するようになる。陶隆房(周防国守護代)は天文20年(1551年)8月末、謀反の兵を挙げた。重臣の内藤興盛(長門国守護代)も黙認し、義隆を救援することはなかった。義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしたが、暴風雨のために逃れることができず、長門深川の大寧寺に逃亡し、そこに立て籠もった。このとき、義隆に従った重臣・冷泉隆豊の奮戦ぶりは目覚しかったが、多勢に無勢であり、義隆は隆豊の介錯で自害した。享年45。