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    第5章 分断の38度線 「済州島の反乱」より抜粋
 
 
  蜂起
 
 
  1948年3月1日には済州島で、本土における単独選挙に反対するデモがおき、警察は2500人の青年を逮捕した。それからまもなく、島民がそのうちの一人の遺体を川から引き上げる。拷問の末、命をおとしていた。これが4月3日の済州島での最初の蜂起、その後の反乱の起点となる引き金になった。
  4月3日の蜂起は、ほとんどが北部の海岸沿いで起き、11ヶ所の警察支署が襲撃されたほか、さまざまな事件が起きた。デモは単独選挙を批判し、北との統一を要求した。5月には本土で選挙が進行していたが、島では反乱が西海岸へと拡大する。     その1ヵ月後にはアメリカ軍大佐ブラウンが、朝鮮とアメリカの軍が、4000人を超える島民に尋問を行ったこと、またその結果、済州島民による2個連隊の「人民軍」が4月に結成されていたとの判断を報告している。
 ゲリラの兵力は幹部・隊員合わせて4000人と推定されたが、銃器をもっているのはその10分の1もいなかった。残りが所持していたのは刀や槍、農具だった。いわば急ごしらえの農民軍である。
 取調官はまた、「訓練を受けた先導者やオルグ」で南朝鮮労働党が本土から潜入させた者は6人以下であり、北朝鮮からは一人も潜入していないことを示す証拠をみつけたという。島には500人から700人近い同調者がいて、大半の町や村に細胞を形成していた。国立警察は暴動発生に対する責任をまったく認めず、北朝鮮からきた扇動者になすりつけた。
 ブラウン大佐は、報告書のなかでこのような所見を書いている。”反乱によって、すでにあらゆる行政機能が完全に破壊された状態に達していた。島民は暴力に恐慌をきたしてはいたものの、拷問を受けても取調官に屈することはなかった。この島では大半の家族が血縁で結ばれているので情報収集が極めて困難だった。”
   アメリカは対ゲリラ活動部隊に連日の指導を行い、反乱の鎮圧に直接関与した。ある新聞は、少なくとも4月下旬に一度アメリカの部隊が済州島の抗争に介入したことを報じた。6月には日本人の将校や兵士が、反乱鎮圧援助のために秘密裏に済州島へ連れ戻されたと朝鮮人記者団が非難している。
 
 
 
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  村人たちは海岸地域へ強制移住させられた。島の大部分を占める火山・山岳地域は封鎖された。山の中腹にある村の半数以上は火を放たれて崩壊した。ゲリラを支援しているとみなされた民間人は虐殺された。死亡者のなかでは民間人がもっとも多かった。ゲリラに殺されたものもいたが、大半は警察や右翼青年の部隊に命を奪われた。村に残された女性や子供や高齢者は、ゲリラの情報をはけといわれて拷問され、その挙句に殺された。
 1948年後半の「駐韓アメリカ軍事顧問団」の文書には、鎮圧命令で「相当数の村が焼かれた」とある。1949年初頭には、島の70%以上の村々が焼かれていた。4月に事態はさらに悪化する。
 
 
 
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  済州島は中央部の山の頂上から襲う反乱軍が事実上制圧していた。訓練を受けた150人から600人ほどの中核的な戦闘員が中心となり、おそらく1万5000人近い反乱軍の同調者が島の大部分を支配していた。人口の3分の1およそ10万人が、韓国・米軍によって海岸の村に移住させられ、家も食料も無いものは6万5000人だった。
 1949年の春にはゲリラは事実上、敗北した。”総力をあげてのゲリラ掃討作戦は実質的に終った。秩序は回復され、反乱者と同調者の大半は殺されるか、転向した”とアメリカ大使館のE・ドラムライトは報告している。
 そしてほどなく、再選挙を行って済州島から国会に議員を送る事ができるまでになった。このとき島にやってきて立候補したのは、張沢相(チャン・テクサン)、ソウル首都警察庁長を長年務めた人物であった。1949年8月には、反乱が事実上終ったことは明白となった。反乱の指導者李徳九(イ・ドッキュ)は最終的に殺害された。島に平和が訪れた。しかしそれは政治の墓場における平和であった。
 
 いまや極右の「西北青年会」が済州島を管理するようになっており、”島民に対してきわめて専横かつ残酷にふるまい続けた”と、当時済州島にいたアメリカ人は述べている。
 警察署長がこの組織の一員だったという事実が事態を悪化させた。素行の悪いごろつきたちが警官に転じた。「西北青年会」は大勢が警察に加わったり、この地域の行政に関与するようになる。その大半が裕福になり、事業で特別待遇を受けた。
 軍司令官も副司令官も島外の朝鮮北部の出身だった。統治の体制が日本、アメリカ、韓国政府と3回変わっていたという事実にも関わらず、島の資産家・支配階級は再び影響力をふるうようになった。
 
 
 
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  キム・ソンネ博士は、生き延びた島民たちの実情を雄弁に語っている。”家族はブラックリストに乗ることを怖れて、処刑されたものの名前を口にすることも先祖をまつる儀式を行うこともできなかった。一人が共産主義者のレッテルを貼られたら、連座法によってその一族を全員が危険にさらされた。”
 ,抑圧の数十年を経て、機密扱いだったアメリカの資料によると、「済州島反乱」で、1万5000人から2万人が死亡した。韓国政府の公式発表では2万7719人である。しかし、済州島知事はアメリカの情報関係者に対し、6万人が死亡し、4万人が日本へ逃れたと非公式に語っている。
 島民にたいする無慈悲な大規模攻撃で、最近では死亡者8万人との数字を示唆する研究結果もある。島民の5人ないし6人に1人が殺されたといえる。
 
 
 
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  1940年代の末、済州島の住民数はおおく見積もっても30万人であった。このうっとりとするほど美しい島で、自己決定権と社会正義のために立ち上がった地元民に対して無制限の暴力がふるわれた。このことについてアメリカに責任があるという事実を、第2次大戦後の世界が始めて目撃することになった。