お待たせなり!日々、フードコーディネーターになりたい!どうやったらなれるの?SHIORIちゃんがフードコーディネーターになるまでを教えて!本を出すには?!アシスタントにつくには?!などなど、たーっくさんフードコーディネーターについての質問を頂きます。

過去にも何度か雑誌やテレビのインタビューでお話したことがあるので知ってる方も多いと思いますが、アメブロに来てはじめましての方も多いと思うので、ここらでいったんわたしがフードコーディネータになるまでのお話を書きたいと思います。あくまでわたしの場合の話なので、フードコーディネーターを目指す全ての人にお役に立つとは思いませんが、質問のお返事も含めて書くので、ほんの少し参考にしていただけたら幸いです。

非常に長くなると思われます。休憩しつつ、読んでくくださいな。


そもそも、、フードコーディネーターとは??というご質問ですが、

わたしの師匠いわく食の何でも屋!わたしもそう思います。

メニューを考える料理研究家も含むし、テーブルをセッティングするフードスタイリストもそう。企業のメニュー開発をしたり、レストランの店舗プロデュースをしたり、テレビに出演して料理番組をするときもあれば、テレビの裏方として料理番組を支える場合もあります。料理教室の講師もそうだし、その活動は多岐にわたります。


その中でわたしは現在、書籍の出版、雑誌へのレシピ提案&製作&スタイリング、料理教室、料理番組、食のイベント出演、企業のメニュー開発なんかをやらせてもらっています。



まず・・、近年のブログ本ブームで、「作ってあげたい彼ごはん」もブログから人気が出て出版社から声がかかって書籍化!!と思っていらっしゃる方も多いと思いますが、これが違うんです。全くの逆!ここにたどり着くまでに長く、険しい道がありました。


昔から料理が好きでした。料理上手な母の手伝いをするのがすきで、小学校低学年から料理をしていたと思います。当時は、家族がおいしい!って喜んでくれるのがうれしくてとにかく夢中でした。が、小さい頃から料理関係の仕事に就く!などという目標はありませんでした。それが短大在学中に、あるきっかけ(今となっては笑い話。)から自分の好きな料理を仕事にしよう!と思い、ある決意とともにフードコーディネーターを目指すようになりました。ある決意というのは、絶対に若くしてフードコーディネーターとして世に出る!というものです。

当時、同年代の若い子がスポーツや文学(宮里藍さんや綿谷りささん)などの多方面で活躍しているのに、料理の業界は主婦中心で、全く若い子のパワーが届いていないように感じました。それくらい料理の世界は、若い子が入り込んでいくのが難しいのか、、それとも目指す若い子がいないのか。どちらにせよ、もっと若い子の視点が入り込んでもいいのでは?と強く思うようになり、だったら自分でやれるところまでやってみよう!と思いました。



ちなみに、短大は栄養科ではなく、普通の文系です。よく質問を頂くけど、調理学校なども行ってません。料理は全て独学です。


そんなわけで短大卒業後、普段はレストランのキッチンでアルバイトをしながら週に1回、半年間フードコーディネーター養成スクールに通いました。スクールでは、料理技術ではなくメニュー開発のポイント、おいしそうな盛り付け、スタイリング、料理写真の撮り方などを実習中心に学びました。卒業のタイミングで、「うちでアシスタントをやらない?」と先生にお声をかけて頂き、アシスタントをはじめることになりました。20歳の終わり頃でした。


ここからわたしのアシスタント生活のはじまり。アシスタントをはじめるときに、生意気にも先生に「自分は若くして独立したいのでみっちりしごいてください!」なんて言いました。

そこから最初の1年間は、ひたすら掃除、買い物、皿洗いの日々でした。食材や調味料の計量をまかされるようになったのも、だいぶ時間が経ってから。たかが計量でしょ?と思うかもしれませんが、味を左右する計量は決して間違いのあってはならない、とても重要な仕事なのです。アシスタントに一番大事なことは、いかに先を読み、先生が仕事をしやすいようにサポートするかです。常に常に先を読んで行動しなくてはなりません。

神経は使うし、一日中立ちっぱなし、走りっぱなし、きつくつらいこともたくさんあって、何度も辞めたい!と思ったことはありました。でも、ここで辞めたらきっとどこでも通用しない。自分はここまでだ。って思うようにして自分を奮い立たせてのくり返し。でも、もちろんつらいことばっかりじゃないです。常時4~5人いたアシスタント同士は非常に仲がよく、毎日お昼休憩が本当に楽しみだった。先生においしいものを食べに連れて行ってもらったり、勉強会も兼ねて旅行に行ったり、楽しいこと、うれしかったこもいっぱいありました。



写真は、わたしを育ててくれた大師匠。祐成陽子先生です。きびしかったけど、全て愛のある厳しさ。先生の下で修行しなかったら今はないなと思う。それくらい自分の人生において大きな影響を与えてくれた、大好きな先生です。今でも、時々一緒に食事に行きます。


どうやったらアシスタントになれるの?!という質問もたくさん頂きます。

全ての料理家がアシスタントを雇っているとは限らないし・・ 大御所の先生方は、既にたくさんアシスタントを抱えてらっしゃるだろうし・・、やはり、現状狭き門となっているのは事実だと思います。わたしは、上に書いたようにスクールからアシスタントになったけど、これも希望者が多かったり、タイミングが非常に難しいので、このやり方が確実とも言い切れないです。ただひとつ言えるのは、諦めないこと。好きな料理家さんがいたら、駄目もとでお手紙を書いてみるのもいいと思います。熱い思いは伝わるかもしれないよ。専属は無理としても、忙しいときにだけ呼んでもらうとか、お願いしてみるのもいいかもしれないね。ただ、決して甘い世界ではないので、そこはご覚悟を。アシスタントの世界は、つらくて、きつくて当たり前です。お給料も少ないと思います。お金を稼ぐという意識より、勉強させてもらうという意識を強く持ったほうがいいと思います。



ちなみに、わたしのもとへも日々たくさんのアシスタント希望のメッセージが届きます。全員に一度、お会いしたいな!ってくらい熱い思いのメッセージばかり。みんなの思いは自分の昔と非常に重なる。わたしも先生に育てて頂いて今があるので、自分がしてもらったように今自分にある知識、技術は惜しみなく後輩に伝えていけたらと思っているのですが、、あまりに数が多いので、後日面接をするなど対策を考えます。

さて、話は戻ります。アシスタントとして働くようになって、ある目標&それに対するタイムリミットを設けました。

これは彼ごはん1のあとがきにあるので、ご存知の方も多いと思いますが「22歳で料理本を出版する」ということです。主婦向けの料理本がほとんどの世の中。若い子の為の料理本を作りたい!と思ったとき、よりリアルな目線で作らなきゃ意味がない。だから自分も若くなくてはいけないと思いました。22歳はストレートでいったら、ギリギリ大学生。若くして1冊目を出すなら22歳!23歳じゃ駄目だったんです。ここで目標を定め、こっからさきはそれに向かって突っ走るのみでした。



日中はアシスタント、帰宅後の深夜、出勤前の早朝に自分の作品(レシピや料理写真)を作っていました。その作品を、まずは自分が読んでいるファッション誌を出している出版社に企画とともに送っていました。無名の新人が突然本を出せる程、出版業界は甘くない。まずは、雑誌などでの実績を貯めようと思いました。そして、若い子に目に止めてもらうなら、まずは絶対ファッション誌だ!!と思いました。料理本をなかなか買わない若い世代も、いつも読んでるファッション誌に料理ページがあったら自然と目に留めてくれるはず!と思ったのです。ここで、背伸びをして奥様雑誌や本格料理雑誌に送らなかったのは本当によかったと思っています。


が、、それでも出版業界は厳しかった。企画&作品を数十社に送ったものの全く音沙汰のない日が続きました。諦めかけていた頃、突然とあるギャル雑誌から料理ページの連載を頂きました。作品を出してから、1年後のことでした。ようやく掴んだ初仕事は「cawaii!」(主婦の友社)のモテルギャル弁と言う名の連載ものでした。当時、無名の新人のわたしにこの大役を下さった、編集長に心から感謝です。そしてこの時、わたしのページを担当してくださったGさまこと後藤さんが、同じ出版社内の編集部をはしごしてわたしのことを紹介してくださり、そこからポツリポツリとファッション誌のお仕事いただけるようになりました。と言っても、最初は3ヶ月に1本お仕事があるかないかくらい。生活の基盤は先生のアシスタント業務でした。



そして、いくつかファッション誌での実績が出来た頃、今度は書籍としての企画を持ち込むことになりました。それが「作ってあげたい彼ごはん」です。おんなの子がお料理を始めるきっかけって、好きな人に作ってあげたいっていう気持ちが大きいと思うんだよね。わたしも実体験から、彼においしいって言ってもらえるとすごくうれしくて、料理が楽しくなって、どんどん好きになった。だからこのサイクルを通して、もっとたくさんの同年代の若いおんなの子に料理の楽しさを伝えたいなと思いました。

だから、1冊目に出す本は、絶対にこの企画。このタイトル。そしてわたしは22歳じゃなくちゃいけない。譲れないものがいっぱい。なかなか頑固者です。


が、いざ企画を売り込みに行こうと思っても、たかが数誌ファッション誌での実績があるくらいだとなかなかアポも取れないんだよね。これまた想像以上に厳しい出版業界。「まずは送ってください。興味を持ったらこちらからご連絡しますー」がお決まりのパターン。


ちなみに、このアポ取りの電話は非常に緊張します。相手が出て緊張のあまり何度切ってしまったことか。(当時の担当者様、ごめんなさい!よい子は真似しないでね。)直接の売り込みなんて、また、これとは比べもんになんないくらい緊張しましたから。足はぷるぷる。あの・・今話しかけないでー的、超忙しそうな編集部の雰囲気。何度も逃げそうになりました。  


そんな中、運よくアポが取れて直接売り込みに行った会社もいくつか。おもしろいねと食いついてくれるものの、「前例のない若い子が作る若い子の為の料理本は、リスクが高いからうちじゃ難しい」がお決まり。

そんなこと言ってたら若い子の為の本はいつまで経っても世に出ないじゃん!リスクもあるけど、無限の可能性もあるよ!と言いたい気持ちが高まっていつも帰りは悔し涙を流してた。




そして・・ついに出会ってしまうんだな。チーム彼ごはんの隊長こと宝島社の井野さん。

井野さんに「彼ごはん」の企画を持ち込んだとき、今まで見せたどの編集者とも違う表情で、「うちでやりましょう。わたしが担当したい」と言ってくれました。企画持込を始めて、何度悔し涙を流したかわからないけど、井野さんと会った帰り道、はじめてうれし涙があふれ出ました。その日のうちに「2人3脚で史織ちゃんの夢を実現していきたい」という内容のメールをくれました。きつかったこと、つらかったこと、今までのことは全部無駄じゃなかったんだ。と思わせてくれる暖かい文面が並んだそのメールは、わたしの宝物。今キーボードを打ってても当時を思い出したら、泣けてきました。それくらい、思いが深い衝撃的で、運命的とも言える出会いでした。井野さんと出会えてなかったら、今頃まだ企画を持って彷徨っていたかもしれないし、挫折していたかもしれないな。



その後、井野さんのアドバイスで料理ブログをはじめることになりました。当時3000個くらい登録のあった料理ブログランキングで開始から1ヶ月半で1位になることが出来き、書籍化の準備が進み、誕生日の10日前、8月6日、ぎりぎりセーフの22歳で「作ってあげたい彼ごはん」が出版となり夢が叶いました。


相変わらず、アシスタントをしながらこのような売込みを続けていたので、出版が正式に決まった時点で先生に報告しました。そのとき、「あなたの夢だったんだから、羽ばたいていいのよ。これから出版準備で大変だろうけど、頑張りなさい。」という先生の暖かいお言葉で背中を押して頂き1年8ヶ月のアシスタント生活に幕を下ろし、2007年4月に独立となりました。



後に井野さんから「誕生日で発売日が決まるなんて、編集人生で初めてだったよ~!笑」なんて話を聞きました。井野さん、たくさんわがままごめんなさいっ!!でも、どの条件が欠けても駄目だったんだな。今手元にある「彼ごはん」3冊は、驚くほどわたしが持ち込んだ企画書に忠実。ある意味チャレンジのこの企画を実現するには、多くのリスクと苦労があったと思います。井野さんをはじめとする宝島社のみなさま、関係者のみなさまには心から感謝しています。


また、家族、彼、友達の支え無しにはここまで突っ走ることは出来なかったと思います。

本当に多くの方に支えられ今があります。感謝してもしきれません。


きつかったり、つらかったり、先が見えなくて不安に陥って投げ出しそうなこともたくさんあったけど、たくさんの方の暖かい支えと、夢への情熱で乗り越えてこれた気がします。決して一人では、成し得なかったことだと思っています。


フードコーディネーターになりたいけど、経験や業界にコネもないし・・ なーんて言葉をよく聞くけど・・

ご覧頂いた通り、わたしもゼロからのスタート!!経験なんて、はじめはなくて当たり前。これから積み重ねていけばいいんです。コネなんて、ない人の方が多いでしょう!コネなんかより、雑草POWERは強いと思う!

一番大事なのは、やりたい!なりたい!っていう熱い情熱じゃないかな?少なくともわたしはそう信じてます。

すぐに結果は出ないかもしれない。でも諦めずに続けていたら、きっといつか自然と道は開けてくると思います。



おいしいごはんには人を笑顔にするパワーがあるもん♪大変だけど、とっても魅力的な仕事だと思います。

一緒に食の世界を盛り上げて行こうぜぃぃえぃ!いえい★


最後まで読んでくれてありがとう(^-^)/