「徳川家康は松平元康が改名の同一人物ではない。今の静岡の宮の前とよばれる被差別地にいた浜松者である。」by八切止夫

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 2024年02月26日

 

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「野史辞典」②八切止夫


前回に続く。以下、一部引用する。


*(山伏)
山武士とも当て字をするが、修験者(しゅげんじゃ)で里へでてくるのは行者とか法師とよぶ。真言宗が勢力をはるために傘下に入れたゆえ、真言密教とも山岳密教など俗に言われる。徳川綱吉の神仏混合令によって神も祇もみな仏教支配地になったので、山に隠れて拝火宗を守り通したのが実際のところだが、高野山や延暦寺なども山上にあったのに混同されたり仏僧が己が勢力下にあるものとして舞文曲筆、訳がわからなくなってしまっているが、出羽三山はみな道海などと海号をつけている。黒潮渡来の名残りを伝えていたものらしい。若狭神宮寺の北狄(ほくてき)のダッタン修法のごとく、たいまつの火をかざし火天、水をまく水天を交互に修法するのも、北ではなくペルシャ風。

*(楽市)
楽座ともいう。商売に課税をせぬことである。権力者が税をとらぬというのは可笑しいが、織田信長がヤ衆とよばれる同じ拝火宗徒に限って商いをさせたゆえである。つまりそれまで足利将軍家の資金源だった課税徴収のための諸国の関所を撤廃させたのも、商売はヤ衆と限定され、ヤ衆はその利益をもって軍費にあて、天下布武の旗を各地に進めた故である。このため信長以降今に到るも、まだ三河屋、松坂屋と、ヤ衆を証明するためのヤ号を商家はつける。

*(夷)
定説とされ誤られているのは、北陸奥州に住した原住民であって、北海道にはアイヌとよばれる彼らがいて、語源はエビスがエズになりエゾとなったのをイとなするところの説。しかし夷はあくまでもイであるべきで今の岩手県の閉伊郡も当て字で、かつては閉夷郡つまり日本原住民をとじこめていた捕虜収容地というし、アメリカのインディアン居留地なみのものであった。しかしアイヌは白色人種、吾々の先祖は今も昔も黄色人種。これを故意に混同しているのは誤りであり、藤原体制以降の施政方針によるものだろう。が関東のイは関西ではアになってしまう。つまり恐山のイタコ、水郷のイタコの伊太郎とよぶのが、イカンイケマセンがアカンアキマヘンとなるごとくアタゴと変化させられるゆえ、夷は少数民族なりとしアイヌらにしてしまったりする。畳表のイグサにしても箱根をこすと伊勢ではアミとされてしまうのと同じ完全に判らなくなる。

*(医)
医も夷である。人間が人体を診るのゆえと頼朝御判28種に入り明治末まで日本原住民系の限定職。

*(生品)
夷久郡群馬新田にあり、<太平記>には新田義貞が、生品神社社頭にて旗揚げしたとあり徳川家康はその新田の血をひくと江戸時代は尊ばれ明治41年には皇太子行啓(ぎょうけい)。
鬼衆のちの鬼石の土地である。原住民系の限定地だったのは明白。信濃の生島、神戸の生田、大阪の生玉もみな同じ。神社になっているのは反抗したのは皆殺しゆえ、化けて出ぬよう封じこめ、イクシナ、イクタのイは夷の当て字に変えたもの。文字づらでなく発音で確かめるべきである。

*(一向一揆)
後の東西の本願寺になる浄土真宗が、他より遅れて出来たゆえ目ぼしい檀家がなく、金もちの革屋や他宗では相手にせぬ人々を味方につけ、武力闘争までもっていった。
仏教といっても北条時代の弾圧下に生れた日蓮宗の後で、今でいう新興宗教で共に純日本人の創設したものである。が一向宗の頃には、もはや公家や陽のあたる人々には決った仏教があった。
それを引きこむことは無理で、蓮如上人ごときは自分の西方の妹をば武田晴信の妻にさえした。
もちろんそれまでに天台宗は七福神法なるものを創め日本原住民の転宗を企て、高野山も江戸期では法界坊、願人坊主とよばれる剃髪できぬ私僧、つまり本山へは登ることも許さぬ者らに笠をかぶらせ、布教と上納金集めに、ひじりの名で各地へ出していた。今では誤られて、菓子にまでなる。
さて高野山では非事吏、卑地吏と呼ばれていた日本原住民の転向者を徹底的に集め、彼らをして「悪人にても念仏を唱えれば成仏、今は人間扱いされぬ者でも念仏さえあげれば・・・」と今いう同和地帯へオルグとして送りこみ、教えのためには死ねば来世は常人に生まれ変わると無敵集団に組織した。

*(伊留満)
<フロイス日本史>によれば、教会敷地内は治外法権で、罪をおかし追われている者たちが入りこんで身を隠し、雑用を手伝いそれら日本人がイルマンになったという。イエズス派記録ではパードレに次ぐ修道士位ゆえ、日本では天文21年に任命されたバスク人のルイス・アルメイダの名が出ている。しかし日本人イルマンは日本の文字すら読めぬ者が多く、ただ「ドリチキキリシタン」つまり「讃えんかな神を!」の一語だけ覚え、現代の麻薬の売人のごとく布教費用にと持ちこまれた火薬原料の硝石を売り廻り、欲しがる戦国武将を切利支丹大名にしていた。

*(紫衣事件)
「宋史によれば則天武后紫衣を法郎に下賜されし故事により」と日本でも紫衣は天子の御衣とされ尊ばれて京の御所では藤原時代からずっと中国風がその儘だった。
徳川家康は松平元康が改名の同一人物ではない。今の静岡の宮の前とよばれる被差別地にいた浜松者である。それゆえ承久の昔に北条政子が京へ仕返しをして六波羅探題をおいたごとく、家康も京所司代なる監督官庁をおき御所を取締り、慶長20年に<禁中並公家諸法度>なる法律をだした。運悪くそれに引っ掛かったのが、後水尾帝が紫野大徳寺、沢庵和尚らへ下賜なされ紫の衣を勅許された一件である。なにも下賜されたのではなく、ただ許されたのみゆえ違法ではないと弁解されたが、京へ家康からは重罰にすべしと通達されてきた。よって帝は廃立されたまいて、沢庵たち僧侶は放逐さる。

*(注連縄)
しめを、753と書く。公家の忌む奇数字に当てられている。という事は、「標」とかいて、シモの義なりとする「古語字解」の意味にもつながってくるのである。
日本原住民には神聖でも公家からは界外(かいげ)として差別するためのもので、区別する為の仕切りであって、神聖視したのではない。つまり区分といった縄張りの語源にもなる。今も火事場は縄を張る。

*(白山神)
<白山記><本朝神仙伝><元享釈書>その他に多いが、ベーリング寒流にのり沿海州北朝鮮から裏日本へ渡り崇神王朝をたてた蘇民が、己が守り神として祀った神。
加賀の白山が似ているから大化改新で唐韓の出先機関によって追われた子孫が祖神とし源氏系の守り神。徳川綱吉以降は仏法化され白山権現と明治まで末社も3千余もあって、その社のある土地はみな原住民地だった。が弾圧され白髭とか白を上につけるだけのが白山島の新潟にも多い。

*(神祇)
国教として持ちこんできた仏教を、強制信仰させるため各地に国分寺が作られ、抵抗して始末の悪い騎馬民族系が東方系ゆえ「東方瑠璃光」の東光薬師を奉じさせた。
がそれでも彼らは白頭山をしのび加賀の白山をもって「おしらさま」なる信仰を棄てなかった。
やむなく本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)がうみだされたのである。つまり仏陀が衆生を救済するために、各地に神と化身され現れたもうたのだから、拝むのは一緒であると彼らを教化する為の神仏習合説である。
しかし騎馬系の源頼朝らと一緒に旗上げした拝火宗の古平氏北条政子の時代が続いた鎌倉時代にあっては、仏教弾圧のため京の御所を次々と配流にし、なむあみだと唱えることさえ禁じ、逆に、「反本地垂迹説」までうちだした。つまり神が使いとして仏を遣わしたにすぎぬから、菩薩など拝むことはないとして、神社もカラ神つまり朝鮮半島からのものの他は、みな紅殻を塗って赤染め。
北条9代が終って足利期になると「祇」とよばれる赤塗り社は弾圧差別された。祠堂の奉仕者は、博士小太夫と蔑まれ、信徒や門徒は博徒と人外視されて反抗すれば橋のない寄せ場へ入れられた。平姓を名のる織田信長は、彼らだけに商売を許し清州を楽市とし無税にし、やがて課税のための諸国の関所も撤廃させた。天下布武のため彼らは進んで各地を攻略してゆきヤ衆の名を広めた。
家康も当初は薬師系を抱きこみ関ヶ原合戦で勝ったが、三代家光の代からは神君と家康を奉りはしたが仏教化してゆき、やがて綱吉の代になると、寺社奉行を一度に3人も4人もたて反仏派を弾圧した。そして「白」を名のって、白柄組と言っていた神祇派を一斉に江戸で旗本以下2千余、地方を入れると20万人からが貞享4年に橋のない除地へ放逐された。天保の飢饉で脱出してきた子孫の者らが互いに限定地の生国を名のり合い同族かどうかと確かめあったのが、今いう仁義をきるで、神祇が恰好よく美化され仁義の文字におき換えられたのである。キルは九字をきるのと同じ意。



(管理人)
伊留満をコトバンクから。

《兄弟・神弟の意》キリシタン用語。宣教師の称号の一。助修士。平修道士。イルマンが司祭職に叙階されるとパードレ(伴天連(バテレン))となる。「伊留満」「以留満」「入満」とも書く。

キリシタンの修道士
「入満」とも書く。ポルトガル語で「兄弟」の意。宣教師のうち司祭(伴天連 (バテレン) )でない者。外国人ではフェルナンデス,日本人ではロレンソ,養甫軒パウロ,その子ビセンテ,ハビアンなどが有名である。


八切氏は「日本の文字すら読めぬ者が多く、ただ「ドリチキキリシタン」つまり「讃えんかな神を!」の一語だけ覚え、現代の麻薬の売人のごとく布教費用にと持ちこまれた火薬原料の硝石を売り廻り、欲しがる戦国武将を切利支丹大名にしていた」存在と主張する。
コトバンクにはこのようなことは書けないでしょうナ。


紫衣事件(しえじけん)をウィキから。


紫衣事件(しえじけん)は、江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とみなされる事件。
また、後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく譲位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立だった。
経緯
紫衣と事件に至る事情
紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
これに対し、江戸幕府はかねてより寺院・僧侶間の訴訟・争論に対処しており、公家の不行跡である猪熊事件と併せて、宗教界・朝廷の統制を行う必要性を認識していた。慶長18年(1613年)、幕府は公家衆法度と共に「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらに慶長20年(1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
事件の概要
このように、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代征夷大将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している。
天皇は寛永6年(1629年)11月8日、幕府への通告を全くしないまま次女の興子内親王(明正天皇)に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。
その後
寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許された。配流された僧のうち、沢庵は徳川家光の帰依を受けたことで家光に近侍し、寺法旧復を訴えた。
寛永18年、事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も戻されている。




八切氏は「「宋史によれば則天武后紫衣を法郎に下賜されし故事により」と日本でも紫衣は天子の御衣とされ尊ばれて京の御所では藤原時代からずっと中国風がその儘だった。
徳川家康は松平元康が改名の同一人物ではない。今の静岡の宮の前とよばれる被差別地にいた浜松者である。それゆえ承久の昔に北条政子が京へ仕返しをして六波羅探題をおいたごとく、家康も京所司代なる監督官庁をおき御所を取締り、慶長20年に<禁中並公家諸法度>なる法律をだした。運悪くそれに引っ掛かったのが、後水尾帝が紫野大徳寺、沢庵和尚らへ下賜なされ紫の衣を勅許された一件である。なにも下賜されたのではなく、ただ許されたのみゆえ違法ではないと弁解されたが、京へ家康からは重罰にすべしと通達されてきた。よって帝は廃立されたまいて、沢庵たち僧侶は放逐さる。」と主張する。。
後水尾帝は興子内親王(明正天皇)に譲位したのか?
廃立させられたのか?
ウィキも「幕府が、天皇よりも上に立った」ことを認めている。
この時点で「今の静岡の宮の前とよばれる被差別地にいた浜松者である“日本原住民の家康”が、唐・百済勢力である天皇よりも権力を持った」のである。
秀忠の時までは、仏教勢力も弾圧されたのである。
しかし家光の時代になり、仏教勢力は息を吹き返すのである。
やはり、家光は仏教勢力支持者であるようだ。
八切氏の指摘が真実であることは、この「事実」からも分かる。