卑弥呼と邪馬台国の精密分析
本歴史ブログでは、これまで「卑弥呼」なる女性については何度か触れてきたものの、古代史ファンが熱狂してやまない「卑弥呼・邪馬台国論争」には積極的に立ち入らないようにしてきました。
しかしながら、「少女神」という古代王権に関わる女性の役割がはっきりと見えてきた中で、話の展開上取り敢えず
卑弥呼 = 媛蹈鞴五十鈴媛(タタラ姫+イスズ姫) = 神武天皇皇后
ということにしてきました。
ただし、この設定に関しては実は私もまだ釈然としない部分が残されており、いわゆる魏志倭人伝が伝えるところの西暦200年代中期の出来事に、神武天皇の后の話が登場するのはやはり時系列的に無理があるとも感じていたのです。
流石に皇紀が伝えるような紀元前660年ではないにしろ、神武天皇の即位は遅くても西暦100年よりは前だろうと考えられるからです。
ここは一旦、邪馬台国・卑弥呼について曖昧にしたままではなく、その出典たる魏志倭人伝について、精密に分析を掛ける必要があるだろうと考えたのです。
■異色の邪馬台国本
私も、邪馬台国論争がどういうものであるかは心得ていますし、どちらかというと畿内説より九州説の方が支持できるかなという極めて浅いレベルではその論争に身を置くこともできます。
しかし、邪馬台国の所在を巡る種々の議論に対し一斉に冷や水を浴びせる説があるのをご存知でしょうか?
ここから先は、上記PDFをお読みになって頂くのが早いのですが、10年以上前に同書に出会って以来、
「倭人=日本人」と誰が決めた?
という疑問点については常々頭の片隅に入れていたのも間違いありません。そこで、同書の「倭人伝」から、その疑問に関する著者の強烈な皮肉について書き出してみました。
この『三国志』中の『魏書』の末尾に『烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝第三十倭人之条(とういでんわじんのじょう)』という記録があり、これを我が国では、旧来、一般に「魏志倭人伝」と称し、この条文を以て、日本古代史の或時期のエピソードであったと看做(みな)し、我が国古代の歴史を語る上において欠かすことの出来ない重要文献の一つ、即ち「倭人伝= 日本古伝」と信じ込んでいる様である。
この様な固定観念を以て、倭人伝の語る内容を検討しているが、その実情は語呂合わせ的であり、かつ、附会曲解の一語に尽きる解釈足らざるを得ず、この種の研究がなされる様になって、既に3 世紀を費やしているといわれているが、未だに納得のゆく結論めいたものは出ず仕舞である。
山形明郷「卑弥呼は公孫氏」p12より
確かに、魏志倭人伝内に「伊都国(いとこく)」とあれば「糸島のことだ!」、「末羅国(まつらこく)」と来れば「松浦の事だ!」といったような、極めて短絡的な、それこそ語呂が少し合った程度で、それがあたかも確定事項のように、邪馬台国が日本国内に存在したかのような牽強付会な結論に導こうとする論調は多く見かけます。
確かに、この方法だと、自分にとって都合の良い解釈がいくらでも可能であり、その意味では私の掲げている説なども、同じ批判に晒される対象と成り得るでしょう。
■起点を定める
さて、その魏志倭人伝の書き出しはどうなっているのか、原文を見てみましょう。
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり。」
「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山がちの島に身を寄せて、国家機能を持つ集落を作っている。昔は百余国で、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。」
引用元:https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
倭国の方位を指す最初の基準点として、古代中国の直轄県「帯方郡」(たいほうぐん)の名が記されているのが分かります。その帯方郡の存在位置についは一般的に、朝鮮半島の中西部に存在したとされています。
しかし山形氏は、
そもそも帯方郡が存在していた場所はどこなのか?
すなわち、いきなり倭国の位置探索を始める前に、そもそもどこを起点に倭国を巡ったのか、そこを問題としているのです。その為、同時代の中国古文献をほぼ余すことなく渉猟し、そこに記述されている国名や、河川名などを徹底的に絞り込んだ結果、楽浪郡・帯方郡、及び馬韓・弁韓・辰韓などの古朝鮮国家群の位置関係を次のように突き止めます。
つまり、楽浪郡・帯方郡・古朝鮮国の一群は遼東半島の北方付近にあり、従来の古朝鮮国は朝鮮半島にあったという定説は誤りであるとしています。また、後漢書韓伝には
韓は三種あり。一は馬韓と曰ひ、二は辰韓と曰ひ、三は弁辰と曰ふ。馬韓は西に在り、五十四国あり。その北は楽浪と南は倭と接す。辰韓は東に在り、十有二国。その北は濊貊と接す。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国。その南はまた倭と接す。
とありますので、倭国とは画像3の馬韓南部、及び弁韓の南部と接する辺り、すなわち遼東半島南部沿岸から、始まることが分かるのです。
これに、魏志倭人伝の記述を当て嵌めると(「里」は海上では正確な距離を示さず、一昼夜程度の時間を百里見当としている)、結局、倭国とは
遼東半島南部から朝鮮半島一帯を指す地域
であることが示されるのです。
即ち、日本列島内で「畿内だ、九州だ」と騒いでいる邪馬台国論争には実は何の意味もないと山形氏は看破しているのです。
■女王と公孫氏
この後、卑弥呼と遼東半島の有力氏族である公孫氏(こうそんし)との関係が述べられていますが、詳しくは同PDF文書を良くお読みになってください。
山形氏の指摘を受け入れると、私の卑弥呼=媛蹈鞴五十鈴媛説は見事に崩壊する訳なのですが、むしろ私はその方がスッキリするのです。
この二人は時代的には200年以上離れた存在であり、二人が別人とすれば、これで時系列問題がクリアされたことになります。そして、魏志倭人伝には卑弥呼登場の前に「倭国大乱」が短く表現されており、山形解釈によればそれは
朝鮮大乱
と表現しても問題ないでしょう。
実は、媛蹈鞴五十鈴媛から200年位後の時代はちょうど、日本書紀にもある神功皇后による
三韓征伐
が行われた当たりの時代と重なってきます。
ここで、魏志倭人伝における「卑弥呼」と日本書紀における「神功皇后」の距離がぐっと近づくこととなり、あらたな日本との関係性が浮上してくるのです。
この媛蹈鞴五十鈴媛から卑弥呼登場までの200年間は、日本古代史においても謎の多い欠史八代時代とも重なり、この謎の時代は、もしかしたら当時の朝鮮半島情勢を調べることで見えてくる可能性も出て来たのです。
百歳の時を繋げよ卑弥呼なる姫神
管理人 日月土
美濃の姫神
今年の6月の下旬頃、調査の為に岐阜県へ行ってきました。目的地はJR東海太多線(たいたせん)の駅である「姫(ひめ)」駅の周辺、昭和35年まで姫治村(ひめじむら)と呼ばれていた地域です。
この村は、南北に分割され、分かれた地区はそれぞれ多治見市、可児市に併合されています。
この「姫」という駅名があまりにもあからさまな印象を与えることもありましたが、何より太多(たいた)という名前が、その時海外ニュースで何かと話題になっていた
タイタン号の沈没
と言葉の響きが被っていたことが、どことなく気に掛かっていたのです。
単なる駄洒落の話であれば、そのまま忘却の彼方に消え失せてしまうのですが、このタイタン号の沈没事件、調べるとおかしな話や奇妙な点が多く見られ、それらについてはこれまでブログ記事でもご紹介しています。
関連記事:
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ただの駄洒落繋がりと言われればそれまでですが、「姫」についての話は、これまで少女神に関して考察してきた見地からも興味がそそられる話題でもあり、ここは一丁、現場を見て来るかと、実に気楽な思いで現地に向かったのです。
■現地に残る姫伝承
ところで、どうしてこの地域が「姫」と呼ばれるのでしょうか?それについては、可児市のホームページにその謂われが詳しく掲載されています。まずは、長文ではありますが、主要な部分を抜き出したので、そちらをお読みになっていただければと思います。
序章
大国主之(おおくにぬしの)命(みこと)が因幡(いなば)の白(しろ)兎(うさぎ)を助け各地で、国造りを進めていたころの話です。
大国主之命の娘で、農耕・医療・織物に長けた下照姫之(したてるひめの)命(みこと)は、高天原(たかまがはら)から遣わされた天稚彦之(あめのわかひこの)命(みこと)と結婚し二人の娘を儲け美濃で国造りをされていました。
8年の間、高天原(たかまがはら)に戻らなかった罪で天稚彦之(あめのわかひこの)命(みこと)は大矢で討ち取られました。
その死が高天原に届くと、天稚彦之命の両親も悲しみ美濃の大矢田に下り、喪屋(もや)で弔(とむら)いをしていると、下照姫之命の兄の味耜高彦根之(あぢすきたかひこねの)命(みこと)も弔いにきました。
その兄が天稚彦之命に似ており、両親は「天稚彦が生きている」と喜び勇み高天原に戻りました。
死人に間違われた味耜高彦根之命は怒り、喪屋を藍(あい)見(み)川(がわ)に蹴り落としました。川に流された喪屋をこの地の民が拾い、川に流されないよう天王山に納め弔いました。のちにこの山を喪山(もやま)と呼ぶようなりました。
これを見て下照姫之命はまた民と手を取り合いこの地の国造りを進められました。ふたりの娘も成長し、姉の御手洗姫之(みたらいひめの)命(みこと)をこの地に残し、下照姫之(したてるひめの)命(みこと)は妹の姫之(ひめの)命(みこと)とともに、信州に届く国造りに向かわれることになりました。
なんと、かつて本ブログでも取り上げたことのある、日本神話の神々(あるいは古代人)が勢揃いしているではないですか。しかも、いわゆる「返し矢」のエピソードもここには記されており、これはもはや日本古代史に関わる話であり、駄洒落から生まれた興味として軽々と取り掛かれません。
ここに登場する下照姫(したてるひめ)は、大国主之命の娘とされている点から、記紀・秀真伝の3者の中では、古事記に記されている関係に近いと考えられます。
目新しいと思われるのは、夫の天稚彦(あめわかひこ)に先立たれた後、その妻下照姫と二人の娘の様子が描かれていることです。これは、記紀・秀真伝には残されていない伝承なのです。
特に気になるのが「二人の姫」の存在で、これについては記紀・秀真伝の中では触れられていません。つまり、この地方伝承は単なる記紀の焼き直しではなく、史書にはない新たな史実を伝えている可能性があるのです。
それでは、その二人の姫の一人、美濃の地にその名を残した「姫之命」についてもう少し見て行きましょう。こちらも長文となります。
姫之命
木曽川に着くと夕方となり、一夜を過ごして川を渡ることとされました。次の日早朝、荷物を持つお供達とともに木曽川を渡りました。
可児の地に入り川沿いの薮道を東に歩き始めると、白い兎が出てきました。姫之命様が兎についていくと、藪の中に竹籠を背負い座る古老がいました。
古老が見上げると、靄(もや)に射す陽の中に美しい姫が立っておられました。古老は思わず「お待ちしていましたお姫様」といって泣き出しました。
下照姫之命様と姫之命様が訳を聞くと、「仲間と筑紫・出雲・丹波などに住まいながら東国をめざして来ました。地の長や民に竹具作りや手ほどきをしながらこの地に着き数十年がたち、仲間もいなくなりました。私は各地の経験や古老を理由に人々の相談に乗るまでになりましたが、水害や凶作などの良い相談相手にならず困っております。ある夜夢で、この地を治める神の御子を待てとのお告げがありました。今日、いつものように薮に竹を取りにいくと、珍しい白兎が出てきましたので、追って来たらこの藪にたどり着き、疲れて座り込んでいました。」といいました。
お二人の姫様は、「この白兎は何かの縁、案内を」と申されました。姫様達が霧漂う洞(香ケ洞)に着かれると、長く霧と雲で覆われていた空が開き日差しが下霧(下切)の周りを照らし、霧はいつの間にか消えました。
古老は下照姫之命様のお名前のご威光を目の当りにしました。
雲間の青空が大きくなる様子を見上げた人々は空に向かう白く細い煙に気が付くと、煙の出る古老の住みかに寄ってきました。
集まった人々は古老から経緯を聞くと、美しく神々しい姫様達に手を合わせました。姫様達は持ってきた干し米飯を湯戻しして少しずつ分け与えられました。米ができないこの地の人々は美味しい飯に喜び、この米の作り方を教えてほしいと口々に申しました。
お二人の姫様は、この夜の満点の星をみながら、姫之命様とお供の一部がこの地に残り国造りを進めることを決められました。
下照姫之命様は、亡き天雅彦之命を偲び夫の両親や兄を想い読まれた
天(あめ)なるや 弟(おと)棚(たな)機(ばた)の 頸(うな)がせる
玉の御統(みすまる)に 孔(あな)玉(たま)は
深谷二(みたにふた)渡(わた)らす 味耜高彦根之(あぢすきたかひこねの)神ぞ※天の織姫の首飾りの連なりのように輝く天の川が両岸の星をまたいで
輝き渡らしているのは味耜高彦根之(あぢすきたかひこねの)命(みこと)ですとの歌を、天の川を見上げ、若い姫之命様に贈られ「父や母は、いつもあの2つの星から見守っている」と言われました。
下照姫之命様とお供が信濃に向かわれた後、白兎は長く山にいましたが、仲秋の満月を境に消えてしまいました。「月に戻ったのかな」といい白兎の縁に感謝し、人々は月に祈ったそうです。兎のいた場所を兎田とも呼ぶようになりました。
「もう何年も天気も悪く粟(あわ)や稗(ひえ)の実りが少ない」との話を聞かれた姫之命様は、この湿気(尻毛)の粟(あわ)田の水はけを良くするように細い溝を田にめぐらすと良いことや山裾に広がる稗(ひえ)田に流れ込む山水の沢に小さな堰(せき)と水を引く溝(みぞ)や畦(あぜ)を作り、田の水を加減すると良いことを話されました。言われたように溝を作ると弱っていた粟がしだいに元気になりました。
秋には、粟も稗も穂が垂れるほど実りました。姫之命様は、この実りをもたらした田や自然の恵みに感謝をし、笹で作った斎(いみ)竹(だけ)を立て、真菰(まこも)で作った新菰(あらごも)を敷いた斎庭(ゆにわ)(神事の場所)で人々と共にお祈りをされました。ここに真菰や神田の字名が残ります。
時に暦の神事を行い老若男女が集まり語らいをすることで、諍(いさか)いを無くし助け合えるようにされました。
何年か後には人々が望んだ米づくりも始まりました。火傷や外傷をした人には、傷口を水で洗い、川辺のガマの花粉を塗りガマの穂を敷き、休ませました。熱や腹痛などの病気の人がいれば、笹の葉を煎じた薬茶を処方されました。弱気になった病人には、竹取の古老が作った折(おり)樽(たる)を捧げ快方を祈られました。
人々の困りごとの相手もされ、人々が平穏に暮らせるようにと、神と人を結ぶ青木の枝を御神木(ごしんぼく)として立てて、神様のご加護を願われました。榊の名を持つ青木が地名として今も残っています。
姫之命様は、人々に親しまれこの地に住まわれ下切を中心とする姫庄と呼ばれた地域を治められました。
引用元:姫治のむかし話 https://www.city.kani.lg.jp/20554.htm
(以下略)
日本書紀、古事記、そして秀真伝に記述されている、天雅彦(あめわかひこ)、味耜高彦根(あぢすきたかひこね)、そして下照姫(したてるひめ)の関係性については、宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」のモチーフに使われていることを過去記事で指摘し、逆にアニメ中の表現から、これらの史書に書かれていない関係性について考察しています。
画像2を見ると、古事記では下照姫はこの文中の歌は詠んでおらず、詠み人は、味耜高彦根の妹である高照姫(たかてるひめ)となっているのです。どうやらこの伝承、記紀の記述がごっちゃになっているようで、これは史書のつまみ食いとも取れますが、逆に、この伝承の方がオリジナルで、後に史書毎に記述が代わったとも取れなくもありません。
この問題は、古事記に登場する高照姫が下照姫と同一人物であると解釈することで、取り敢えずの解決を見るのですが、何故こんなことが起こるのか疑問は払拭できません。
そんなことよりも、ここで注目すべきは、姫之命に関する次の点なのです。
1)正式な名が残されておらず、一般名称の「姫」のみである
2)出雲大国主との関係(白い兎の登場)
3)水利による土地改良の知識
4)祈りによる病気快癒、人々の相談事
2)、3)については、白い兎は因幡の白兎を連想させ、優れた土地改良のノウハウも出雲系民族を連想させます。4)についてはシャーマン(巫女)としての能力の高さを謳っていると解釈して良いでしょう。
しかし、それほどまで優れた血筋であり、能力が高い女性にも拘わらず、その名が残されていないのがまたまた気になるのです。このような場合、意図的に名が伏せられたと考えるのがこれまで本ブログで行ってきた史書の読み方なのです。
■姫之命は木花咲耶姫である
ここで、これまでの考察で得られた結果が応用できます。まずは、過去記事「猿と卑しめられた皇統」で導いた次の結論を思い出してください。
上の図から、下照姫とその夫である天雅彦の間に生まれた娘の姫之命、その方が
木花咲耶姫 (このはなさくやひめ)
であると導かれるのです。
加えて、木花咲耶姫に関する史書の伝承は、その姉である磐長姫(いわながひめ)の存在も伝えており、姫之命の姉である御手洗姫が磐長姫の変名、あるいは本当の名であることも分かってくるのです。
ここは取り敢えず
美濃の姫之命は「木花咲耶姫」である
と結論付けてよいでしょう。
■再現される木花咲耶姫
上述では、宮崎駿監督の「もののけ姫」のタイトルを挙げましたが、今年の夏、その宮崎監督が引退宣言を撤回して新作を出してきました。ご存知の通り「君たちはどう生きるか」です。
この中の登場人物である「夏子」について、そのキャラ付けが人気アニメ作品であった「ぼっち・ざ・ろっく」のぼっちちゃんこと「後藤ひとり」と同じであると指摘したのが、(真)ブログ記事「ぼっちと夏子は似た者同士」であり、その理由について述べたのが(新)ブログ記事の「ひとりぼっちのナツコ」だったのです。
また、この映画を理解するヒントとして、(真)ブログ記事「どう生きるかと問われても」の中で、日本書紀の一節を引用しています。
この後に神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)が、皇孫をご覧になっていわれるのに、「私、天孫の御子を身ごもりました。こっそりと出産するわけに参りません」と。皇孫がいわれるのに「天神の子であると言ってもどうして一晩で妊ませられようか もしや、わが子ではないのではあるまいか」と。
木花咲耶姫は大変恥じて、戸のない 塗籠(ぬりこ)めの部屋を作って、誓っていわれるのに「私のはらんだ子がもし他の神の子ならば、きっと不幸になるでしょう。 また本当に天孫の子だったら、きっと無事で生まれるでしょう」と。そしてその室(むろ)の中に入って火をつけて室を焼いた そして 炎が初めて出たとき、 生まれた子を 火酢芹命(ほすせりのみこと)、 次に火の盛んなときに生まれた子を 火明命(ほのあかりのみこと)と名付けた。 次に生まれた子を、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)という。
日本書紀 神代 下 (現代語訳:宇治谷 孟)
この引用部分を読んでいただければ分かるように、これは木花咲耶姫の出産シーンについて書かれた一節で、アニメ作品の中では、病院で焼け死んだ「ひみ」を直接的に指していると考えられるのです。
すると、その姉妹である「夏子」は必然的に「磐長姫」となるのですが、その解釈を更に補強するのが、
ろっく = Rock = 岩 = 磐
というネーミングであることにお気付きになったでしょうか?
26年前の大ヒット映画「もののけ姫」の中で「サン」という、木花咲耶姫を模したキャラを出してきた宮崎監督、引退を撤回した今回の新作でも再び
木花咲耶姫と磐長姫
の姉妹を取り上げてきたのです。
果たして、この歴史モチーフを再び取り上げた理由とは何であったのか?そして6月の不可解なタイタン号報道は一体何であったのか?特に後者に関しては偶然と片付けるにはあまりにも不可解な点が多いのです。
しかも、この最新作には「B (=13)」の記号も秘められており、その記号がまるでこの時期(特に8月11日)をターゲットに、他作品(米映画「バービー」)の中や社会事件(ビッグモーター不正請求事件)の中にも見出せるのは、もはや偶然と片付けるには余りあるのです。
関連記事:ひとりぼっちのナツコ
これらメディアを通して幾重にも発信される記号は、おそらく「二人の少女神」と言う古代史実の概念を用いなければ理解できない、私はそう考えるのです。
管理人 日月土
欠史八代の天皇と皇后
これまで神代(神話の時代)とされていた頃の日本古代史上の人物について考察してきましたが、今回はそこから少し離れて、神代から人皇の時代へと移り変わった直後の記録について見て行きたいと思います。
記紀では、神武天皇が人の世の王として最初に現れた天皇とされていますが、神武天皇については一旦考察を保留し、その次ぎの2代目から9代天皇までについて、取り敢えず史書に残された記録を纏めてみることにします。
既にご存知の様に、2代目から9代目までの史書における記述は余りに少なく、その少なさ故に、
欠史八代(けっしはちだい)
などと、「史実が欠けた八つの代の天皇」の意味で呼ばれていたりします。
この記録の少なさは、古代史研究者の間でも「その代の天皇は実在などしていなかったのでは?」と歴史の実在性への疑問を唱える声となっているようです。
それはそうでしょう、現在の歴史研究とは主に文献研究であり、その文献自体が存在しなければ、歴史学者にとってその時代は存在しないのも同然なのですから。
■史実が残されていない意味を考える
これまでの記事で、「史書類は改竄の書、暗号の書」と散々述べてきた手前、この史実欠落の理由についても一言私の考えを述べておかなくてはなりません。
神代の記述については、史実のファンタジー化・神話化により、都合の悪い史実を「まるっ」と改変しながら、事実を読み解く解読キーをこそっと文中に残す手法を取っていたと考えられます。そして、実際にその考え方を応用して神代の記録をこれまで読み解いてきたつもりです。
ところが、その史実そのものが記述されていない場合はどう解釈したら良いのでしょうか?おそらく、この時代は神代記のように「改変と暗号キー」でどうにか書き換えるのも叶わないほど、
歴史的に大混乱した時代
だったと考えられるのです。つまり、時系列的に筋道を立てられるような改変が不可能な程、混乱に満ちた時代であったとも考えられるのです。
ですから、日本古代史、あるいは日本成立史を理解する上で、この欠史八代期の史実を知ることは非常に重要なのではないかと私は考えるのですが、如何せん記述が少ない件についてはどうにもなりません。そこで、今回はその僅かな記述を整理して、そこから何を読み取れるのか、あるいは読み取れないかを検証したいと思います。
■欠史八代の天皇と皇后
取り敢えず、日本書紀の記述には、娶った皇后の名前、生まれた子の名前、都(みやこ)が置かれた地名などが残されているので、まずは欠史代の天皇(すめらみこと)について、その皇后の名をリスト化してみました。
参考までに秀真伝(ほつまつたえ)に記述された皇后の名も添えています。
皇后の名に注目したのは、これまでお伝えしてきたように、「日本の王権継承は女系によって行われてきた」という少女神仮説が成り立つであろうと考えたからです。
画像1の場合、赤枠で囲んだ二人の媛については「事代主の女(むすめ)・孫」と断り書きが付いており、この場合の「事代主」とは時代的に大国主の息子である事代主のことではなく、同事代主の孫に当たる「八重事代主(やえことしろぬし)」のことであろうと考えられます。
過去記事「三嶋神と少女神のまとめ」で述べたように、八重事代主は、史書によって「丹塗矢」、「大物主神」、そして「鵜葺草葺不合命(うがやふきあへず)」とその名が変えられており、いずれにせよ玉依姫(たまよりひめ)という少女神に婿入りしています。当然、その娘は少女神の継承者、すなわち王権の継承者であると考えられるのです。
またその娘の娘、すなわちその孫娘についても同じことが言えます。よって、書紀の記述にある「五十鈴依媛(いすずよりひめ)」と「渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)」の両者についてはおそらく少女神であっただろうと判断できるのです。
さて、そこまでは良いのですが、4代目の懿德天皇以降はどうもその手掛かりが見つかりません。この後、日本書紀も秀真伝も男系継承として天皇の代が続いて行くのですが、それを覆すようなヒントは今のところ見つかっていないのです。
この欠史代期の考察については、これまで次の記事で取り上げています。
1)ダリフラのプリンセスプリンセス
2)富士山は突然現れた?
3)菊池盆地の大遺跡と鉄
1)はアニメ作品「ダーリン・イン・ザ・フランキス」に登場するナインズの8人のメンバーが欠史八代に対応していると仮定した場合の考察。
2)は旧事紀30巻本の孝霊天皇の代における富士山に関する異変についての考察。
3)は文中において特に欠史代に触れていないものの、第2代綏靖天皇が祭神とされている、熊本県菊池市の日置金凝神社(へきかなこりじんじゃ)を写真で紹介しています。
どれもまともな歴史資料とはちょっと言い難いのではありますが、少なくとも欠史代が存在していた痕跡を感じさせるものではあり、やはりこの代を全く無視して日本古代社会の成立過程は語れないのだろうと思わせるのです。
まだ漁るべき資料は幾つか残っています。少々尻切れトンボとなりましたが、次回、もしくはそれ以降の回で謎の欠史代について再び切り込んでみたいと思います。
フィオーレ(花)の森を登れば白壁の祈りの堂に君を見染めし
管理人 日月土
古代の女王と文化庁
今回は、地味で目立たない古代史分野において、全国ニュースにもなったあの話題について取り上げてみたいと思います。そうです、何かと卑弥呼伝説と関連付けられることの多い佐賀県の吉野ヶ里遺跡の新規発掘のニュースです。
吉野ヶ里遺跡で見つかった「石棺墓」…「朱の痕跡」は邪馬台国論争に一石投じたか
2023/06/18 15:00
編集委員 丸山淳一
国指定特別史跡の吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ヶ里町)で、弥生時代後期の有力者の墓の可能性がある 石棺墓(せっかんぼ) が見つかり、覆っていた4枚の石蓋を外して内部の調査が行われた。残念ながら遺骨や埋葬品は出土しなかったが、佐賀県の山口 祥義よしのり 知事は「調査の結果、石棺墓は 邪馬台国やまたいこく の時代の有力者の墓と裏付けられた」と発表した。
発掘調査を終えた石棺墓。遺骨や埋葬品は見つからなかった(説明しているのは白木原さん。6月14日午後)
今回の調査地点は神社があったためにこれまで調査されていなかった「謎のエリア」で、神社が昨年移転したことから県が調査を進め、今年4月に石棺墓(長さ約192センチ、幅約35センチ)を発見した。遺跡内からはこれまでに18基の石棺墓が見つかっているが、今回調査された 墓坑ぼこう が大きく、見晴らしのよい丘に単独で埋葬され、石蓋には線刻があった。通常の墓とは異なる特徴から、集落を統治した首長の墓の可能性があるとみられていた。
昭和61年(1986年)に本格調査が始まった吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の全時期にわたる遺跡とみられ、国内最大級の 環濠(かんごう)集落や600メートルにもわたる 甕棺墓かめかんぼ の列が見つかっている。調査地点のすぐ東には14基の大型甕棺と人骨、銅剣、管玉などが出土した紀元前1世紀ごろの墳丘(北墳丘墓)もある。しかし、邪馬台国時代(2世紀後半~3世紀中ごろ)の有力者の墓は見つかっていなかった。調査を担当した佐賀県文化財保護・活用室長の白木原 宜たかし さんは「吉野ヶ里遺跡の最盛期は弥生時代後期。そのときの有力者の墓は大きな問題になる。それが邪馬台国の時代の墓ということになれば、その論争に一石を投じることになるのでは」と話す。
(以下略)
引用元:讀賣新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20230616-OYT8T50003/
要するに世間の関心は「卑弥呼の墓かどうか」にあって、教科書に出て来る古代史上の有名人が実在したその証を求めているに過ぎないのでしょう。今回の発掘では特にこれといった出土品が発見されず、期待だけが膨らんで静かに終息していったというところなのだと思います。
卑弥呼伝説には様々な議論があり、特にその女王国がどこにあったのかについて話題になることが多いようです。中には「卑弥呼は存在しなかった」と主張する研究者もいらっしゃるので、この議論に素人の私が参入するのもどうなのかとは思いましたが、吉野ヶ里遺跡は私も10年前に訪ねた史跡でもあり、その所感くらいは書いてもよかろうと思い取り上げた次第です。
■卑弥呼と少女神
本ブログを読まれている方ならお分かりの通り、私は古代日本に女王国が存在したこと自体に特に驚きを感じていません。それは
古代王権は女系によって継承されていた
という仮説を指示する立場をとっているからです。
いわゆる巫女的シャーマンである「少女神」(しょうじょしん)の血の継承と、その少女に婿入りできた男性が統治王として選任される、そのような王権授受の仕組みがあったのであろうと考えているのです。
どうしてそのように考えるのかについては、みシまる湟耳氏の著書「少女神 ヤタガラスの娘」に詳しいのですが、要するに記紀神話の中にそれを臭わせる記述が散見でき、おそらく女系による王権継承こそが日本古代史における本質的部分であり、後世にそれが改竄され、現代のように男系継承によって王家(天皇家)が続いてきたイメージに書き換えられたのだろうとするのです。
魏志倭人伝における「邪馬台国」とか「卑弥呼」という、日本人にとって極めて侮蔑的な漢字表記は、おそらく後世の反日的、女卑的な思想を反映したものであり、国名や本人の正式名は全く別のものであった可能性があります。
そもそも、魏志倭人伝は伝聞情報を元に書かれたものであり、当時の様子を生々しく記録した実見録とは言えないものなのです。そのようにかなり当てにならない史書であるからこそ、卑弥呼の存在を否定する研究者が出てくるのもある意味頷ける話ではあるのです。
しかし、史書と呼ばれるものはどれも書き手の思想に染まっている物ですから、どれが正しいとか正しくないとか議論しても仕方ありません。むしろ、
どの史書も改竄されている
とみなし、それぞれの史書の思想性や書き手の意図を汲み、なおかつ史跡からの出土品を参考にしつつ事実を割り出していくしか、古代期を推察する術はないように思います。
本ブログではまさにそれを実践しようとしている訳なのですが、そんな中で、卑弥呼と記述される女王とは、
媛蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)
である、すなわち神武天皇の皇后ではないかとしているのです。
日本書紀の神武記においては、神武天皇は九州の宮崎出身ですから、その意味で卑弥呼の女王国は九州内にあったとも考えられるのです。
そしてもう一つ、神武天皇は東征して畿内に大和王朝など作ってなどいない、神武天皇による王朝は九州内に作られたのだとする「九州王朝説」を顧みた場合、邪馬台国(大和国?)が九州内にあった可能性は一段と高まるのです。
■発掘の専門家G氏の見解
さて、ここで吉野ヶ里遺跡の発掘に話を戻しましょう。この話をする前に、今回の発掘対象となった「石棺墓」がどのような構造になっているのかを知っておかなければなりません。
たいへん下手なイラストで申し訳ないのですが、石棺は地山と呼ばれる土の上に石板を縦長に立て、これを側面とします。底板に当たる石板はなく地面の上に直接、あるいは敷物などを敷いてその上に亡骸を横たわらせるのです。これに石の蓋をすれば石棺として完成します。
日本のような酸性土壌に土葬した場合、100年程度もあれば骨は土にかえるのですが、土の上に直接置かれた遺体の場合でも、1000年以上もの時が経てば、その遺体は骨まで全て土にかえってしまうでしょう。ですから、身に付けていた小さな副葬品などは地面に落ち、やがて土に埋もれてしまいます。
ですから、石棺の蓋を取り外しても遺体の残骸はまず見つからないと言ってよいのですが、身に付けていた石や金属の小片は地面を掘り起こして探し出さなくてはなりません。
さて、転載した報道写真にあるような発掘状況を見た時、発掘の専門家である知人のG氏はちょっと驚いたそうです。
地山を掘り返してないじゃないか!
先に述べたように、副葬品は土に埋もれてしまいますから、このような石棺を発掘する場合、地山まで掘り返すのが発掘作業の基本セオリーなのです。
G氏によると、同じ発掘同業者も同意見であり、どうしてこんな素人を煙に巻くようなことをするのかと同業者内で騒然となったそうです。
そして、その後遺跡発掘関係者の間で次の様な話が広まったと言います。
吉野ヶ里の発掘責任者に文化庁から次の様な電話があった。
「掘るのはもうその辺で良いのでは?」
もちろん、この話の真偽は分かりません。ただの噂と言えば噂です。しかし、実際に地山まで掘り返していないのは映像から明らかであり、その事実があるからこそ、このような噂が流れたとも言えるのです。
G氏は、これが事実であれば明らかに中央政府からの干渉であり、発掘を止める理由があるとすれば、出土品がこれまでの大和王権に関する定説に抵触する可能性があるからだろうと推測しています。
先にも述べたように、私は、どんな史書類にも改竄は見られるとしてますが、史実を検証する上で貴重な資料となる発掘作業までもが、もしも政治的に干渉を受ける対象とされているならば何とも残念で悲しい気分になるのです。
■時代設定は正しいのか?
さて、今回発掘の対象となった墳墓は、吉野ヶ里歴史公園内にある日吉神社の下にあったもののようです。
この神社を移設することで今回の発掘が可能になったとのことですが、私はこの墳墓の建造年代をどのように判定したのかについては疑問を持っているのです。
おそらく、神社の周囲にあった他の遺跡や石棺墓類の年代が弥生時代後期と確定していたため、一続きの遺跡として墳墓の年代が推定されたのではないでしょうか?しかし、ここは「通常の墓とは異なる特徴」である点をもう少し気にするべきであったのではないでしょうか?
古代から現代まで、人が集まるところには重層的に遺跡が積み上げられていくものです。つまり、吉野ヶ里のこの土地が重要であり、何代にも亘って、あるいは間欠的にこの土地が使われた可能性があり、必ずしも今回の発掘対象が弥生時代後期とは限らない、可能性としてはそれから数百年後の古墳時代のものであることも考慮に入れるべきだろうと考えるのです。
そうなると、先程の文化庁が干渉してきたという噂の蓋然性も増してくるのです。何故ならば、古墳時代とは、定説ではまさに畿内大和王権の時代であり、もしも、当時の特徴を持った副葬品などが出てきた場合、邪馬台国の所在問題どころか、現皇室の出自までが揺るぎかねない事態となるからです。
真偽の程は私もよく分かりませんが、今回の吉野ヶ里遺跡の発掘は、「卑弥呼」騒動を超えた、この国の始まりに大きく関わるものなのかもしれません。
老女子(おみなご)の 守るは都 吉野ヶ里 この先行かば 火の雨ぞ降る
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