今日も非常に濃厚なスケジュールを過ごしたように思えた。

まず、一つ目に言った施設はトゥールスレン虐殺博物館という場所である。

↑笑顔あふれる高校は拷問を行う場所に変えられてしまった。

入口から物々しい雰囲気である。

 

昨日行ったKILLING FIELDと関連がある場所であり、人々はこのトゥールスレンで拷問を受け、虚偽調書の作成のあと各地のKILLING FIELDに送られ、処刑されていた場所である。

↑数か国対応の音声ガイドがついてくる。これはチュンエクでも同じだ。(携帯電話ではない。番号を押すとガイドが流れる)

 

施設は入って14基の共同墓地とABCDの四つの棟、そして記念碑に分かれている。

↑有刺鉄線が残っていた。脱走者を防ぐためである。

 

元は高校だったらしいが、クメール・ルージュがプノンペンから人々を追い出したあと、ここを極秘の強制収容所にしたようである。12000人〜20000人の人間がここに運びこまれたようだが、生きて出てこれた収容者はなんと12名のみ(全員画家や技術士などの業を持っている人だけ)、と言うから驚きであった。

↑この場所で最後に見つかった14人分の遺体はここに安置されている。

 

まず、共同墓地が入ってすぐ見えるがここにはクメール・ルージュ撤退後、この施設に残されていた名もわからない14人の人々の墓である。自然と手を合わせていた。


またA棟はその14人の方々が見つかった場所で、そこでも自然と入室の際は礼をし、遺体が見つかった場所では手を合わせていた。

↑入口すぐ横にA棟がある。クメールルージュは教室を監獄や拷問室に変えたのだ。

↑鉄のベッドや足かせ、排せつ用の弾丸箱が展示されている。横にあるパネルには、「ここで」亡くなった方の見つかったときの写真を展示してある。(14基のお墓の中にいるご遺体はここやここに似た部屋で発見された。)

 

B棟では資料館が資料がたくさん置いてあった。2階以上の階を見るためには予約が必要らしい。また次の機会にみたい。

↑B棟1階。左上がポルポトの写真。そのほかの幹部も載っている。


A棟では鉄のベッドと遺体写真が飾ってあったが、B棟では収容者の衣服や、ポル・ポトの写真、外国人被害者の写真など直接目で見える形で訴えてくるものが多かった。

↑トゥールスレン(S21とも呼ばれる)の職員。洗脳しやすいよう、子供が主に採用された。無垢故に残忍なこともしたようだ。

 

A棟、B棟の見学だけで1時間半も消費してしまった。炎暑だったからでもあるが、施設内の異様な空気のせいで一気に見ることができず、何度も休憩しながら見たからであった。

↑都市部から田舎に強制移動をさせた。食料はなし、徒歩での移動だったので、大量の餓死者が発生した。

 

C棟1階では独房が当時のまま置いてあった。規制ロープが無かったので入ってよかったのだろう。試しに入ってみた。

↑教室を無理矢理煉瓦で割ったとても狭い独房。


中は圧迫感しか感じることが出来ないくらい狭く、自分なら数日で発狂してしまうだろう。しかし、収容者はここで数ヶ月生きていた人もいる。しかし、この独房で暮らしていた人は全員死んでしまった。生き残ったのはクメール・ルージュに必要だった技術者のみ(12名)であった。

↑C棟は自殺防止のため外に有刺鉄線があった。死ぬことも許されず死ぬよりもつらい拷問を受けていた当時のカンボジア人のことを思うと胸が苦しくなる。

 

C棟2階は、自分的に一番怖く、不気味な場所であった。木製の独房があった2階では構造は1階と同じでも空気はさらに重くそして陰鬱なものであった。収容者たちはここに1人、場合によっては2人入れられていた。

↑スマホのカメラで撮影したので、明るく見えるが、実際はもっと暗く、重々しい雰囲気である。


音声ガイドでは生存者で独房の中で暮らした人(芸術家だったため、途中で職人の小屋に移される)の苦しみの言葉を聞くことが出来、涙が出そうになった。

↑独房の近くにあった黒板。文字が書いてあった跡が見える。高校だった時にこの黒板を使って勉強した跡だろうか...??

 

D棟では拷問器具や生存者の写真、当時の様子を描いた絵などを見ることが出来た。

↑ここからの生存者が当時のことを思い出しながら描いた絵。本当はもっと生々しい絵も存在している。


絵は生存者の絵描きが描いた絵であったが、よくここまでひどいことが同じ人間、同じ国の同胞にできたと思う。しかし、クメール・ルージュに洗脳されていた子供は収容者を敵としてしか見ていなかったのであった(音声ガイド説明)

↑敵から情報を得るために拷問を繰り返した。その情報も偽りの調書を作るための物であった。

 

D棟最後の部屋では骸骨が置かれていた。一つ一つに手を合わせ、プレートに書かれた科学的鑑定を一つ一つ読んだ。

↑科学鑑定された遺体もある。鑑定された遺体はガラスケース内で保管されている。
 

また、骸骨で作ったカンボジア地図などをみて、多くの人が殺されたことを改めて実感し、2度とこのような悲劇を繰り返さないよう心に決めた。

↑骸骨で作ったカンボジア地図。何十人も殺されたのだった。

 

外に出ると記念碑が見える。記念碑には"この悲劇が起こったことを忘れない"とかいてあり、周りの石版には被害者の名前が書いてあった。

↑記念碑。この悲劇を忘れてはいけない。

 

自分に出来ることはこの事実を日本にて発信することであると思った。だからこの2日間の日記(特にこの悲劇については)は細かく書くことにしていた。読んでいただけたら嬉しい。

↑C棟の有刺鉄線。当時の人は外に出たくても出ることができなかった。


また、本を購入したので大学などでも発信していこうと思った。

トゥールスレンを出て、その後孤児院に向かった。
孤児院では勉強にための支援物資などを寄付してきた。

↑ノートや衣類などを寄付してきた。


もう少し交流できたら嬉しかったが、クメール語でこんにちは、ありがとうなどの言葉を言えたので満足。
その後昼食をとり(ココアとポテトフライ)、スラム村へ向かった。

↑お昼ご飯はフレンチフライ。美味しかった。

 

スラムと言っても危ない場所ではない。行ってみると、リーアンさん(カンボジア内でガイド通訳をしてくれている。)が作った図書館で日本語を勉強している子供たちに会うことが出来た。

↑リーアンさんがスラムに作った図書館と、リーアンさん。

 

支援物資を寄付した後、スラムの街を歩いてみた。ゴミが多く掃除をしなければならないとは思ったが、とても笑顔が多い人々が多かった。どの人も目が合えば笑い、挨拶をしてくれた。挨拶をして返ってくるのはとても嬉しい。

↑スラムではごみの問題が存在している。この写真中央をよく見ればわかるが人も住んでいる。

 

その後リーアンさんの図書館で日本語の勉強を一緒にして(自分はクメール語を書く練習だったが)空手の型や日本の歌(シュガーソングとビターステップ)を披露。子供たち(同い年の人もいた)とすごく仲良くなれた。いつか日本語の教師となり、行きたいと思った。

↑子供達には日本語、英語などの勉強を、親には裁縫、鳥などの飼育など技術面の勉強をスラムの人たちに無料で教え、物乞いなどの貧困ゆえの仕事から脱却するため、リーアンさんは活動している。

 

その後2500リエルショップに行き(1$4000リエルである。)買い物をした。キャップとサングラスを購入したが、合わせて5000リエル。とっても安い....!

↑2500リエルショップ前で撮影したカンボジアでの乗り物TukTuk。乗り心地が良い。

 

その後コンビニでカップ麺や缶詰を買ってホテルに帰った。缶詰はトマトツナ缶がとても美味しく日本に持って帰りたいと感じた。

明日からプノンペンを移動し、シェムリアップに飛行機で向かう。(シェムリアップはアンコールワットがある)

↑日本語を一緒に勉強した。私はクメール語を書く練習をした。


国内線が遅れる可能性が大きいため、朝まで予定がわからないらしい....(11:15〜18:00までに出発するらしい....むちゃくちゃである。)
時間があったらセントラルマーケットで買い物ができるようだ。できたら買い物したいなぁ....

↑一緒にカンボジアに行っていたはるちゃん。マンゴーをホテルで剝いてうれしそうだ。