『比較は喜びを奪う。』この言葉は、チャーリー・マンガーが残したものです。  

 

私たちはSNSを開くたびに、友人や有名人の「最高の瞬間」を見て、無意識に自分の日常と比べてしまいます。「なぜあの人はあんなに幸せそうなのに、自分は…」と感じたことはありませんか?この比較こそが、私たちの心の満足を静かに盗んでいく泥棒なのです。

 

 

しかし、もしその比較自体が、間違った前提に基づいているとしたらどうでしょうか。

 

1。満足感と限界効用逓減の法則

経済学に『限界効用逓減の法則』というものがあります。難しく聞こえますが、とてもシンプルです。大好きなピザを想像してください。最初の1ピースは最高に美味しく感じますが、2ピース、3ピースと食べ進めるうちに、最初の感動は薄れていきますよね。

 

これは幸福感にも当てはまります。誰もが羨むような生活を送っている人も、常に最高の幸福を感じ続けているわけではありません。むしろ、素晴らしい出来事が日常になると、一つ一つの喜びから得られる満足感は、私たちの想像よりもずっと小さくなっていくのです。つまり、彼らがずっと「幸福の頂点」にいるわけではないのです。

 

2。必ず良い時と悪い時の両方が存在します

さらに、もっと本質的な視点があります。旧約聖書の伝道の書 7章14節にはこう書かれています。

「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。」

 

この言葉が教えてくれるのは、人生には良い時(順境)と悪い時(逆境)が必ずあり、それは神が意図して創ったものだということです。誰の人生も、良いことばかりではありません。そして、未来に何が起こるかは誰にも分かりません。

 

だから、他人と比べる必要は全くないのです。誰もが神様から与えられた、良い日と悪い日の両方を含む、自分だけのユニークな道を歩んでいます。本当の満足は、他人との比較ではなく、自分の「順境の日」を心から楽しみ、「逆境の日」には静かに考えることで見つかるのかもしれません。

 

人間は、忘れやすい生き物です。だからこそ、もう手にはない過去の幸せな記憶にすがりついてしまいます。その過去の輝きに目がくらんでしまうと、私たちは今日という日にも、すぐそばにあるはずの喜びを見失ってしまうのです。

 

では、なぜ私たちは過去の記憶にそれほどまでに執着してしまうのでしょうか。  それは、私たちが自らの「感情」、とりわけ「幸福感」を何よりも優先するようになってしまったからです。幸せになること。それが私たちの願いであり、追い求める夢なのです。  

 

その夢は、もしかしたら遠い昔、先生に「君は将来、どんな人になるんだい?」と問われた、あの教室から始まったのかもしれません。あるいは、誕生日を迎えるたびに「幸せになってね」と願う両親。あなたの成功を心から祈ってくれる友人たち。  

 

周りの大切な人たちがそれを願うから、私たちも「幸福」を自分の最優先事項にしたくなるのです。これは単なる羨望ではなく、社会であり、文化そのものです。  人間とは、協力して都市を築き上げるほどに、深く文化に根差した生き物なのですから。私たちが気づくべきなのは、「より良くありたい」という向上心は素晴らしいものだということです。

 

他人と自分を比べても良いのです。ただし、そこには明確な境界線が必要です。健全な比較とは、他者から刺激を受け、共に繋がり、共に成長していくためのもの。一方で、最悪の比較とは、私たちの喜びを奪い去るものです。そしてそれは、私たちが比較の「境界線」を越えてしまった時に起こります。

 

相手の感情を勝手に想像し、その心の中まで見ようとしないでください。なぜなら、私たちは「幸福」を優先するあまり、社会や文化に植え付けられた価値観に心を奪われ、本当に大切なことを見失ってしまっているからです。

 

『ワンパンマン』のサイタマだって、勝ちすぎて退屈しているじゃないですか。

 

ですから、どんな時も感謝の気持ちを忘れずに。