聴薬 十三 の内容を少し書き換えました。
*
「……とにかく、今は逃げることに専念しよう。彼のツールは危険だ」
「……………………」
「そうですね……」
僕は嗚咽を漏らしながら、一心不乱に空を飛んだ。黒くなった空の中でひたすら高度を上げる。
隣にはドッペルゲンガーの二人が居る。今は心強さよりも、怖さと悲しさが勝っていた。
突然黒い色に包まれた空。そこから降りてきた人影は、きっと恭司くんだった。
体中から黒い剣が突き出たような恐ろしい姿。禍々しい金属の塊になった右手、低い不協和音のような呻き、濁った瞳、黒い鉄の塊みたいになった体。
二人はためらいながらも、ツールを使用して彼に攻撃を浴びせた。
次の瞬間彼は倒れ、次いで跳ね起き、僕たちに襲い掛かってきた。僕はヒノビウスちゃんに手を引かれ、習得したばかりの飛行を駆使して、今。
――彼に、何が?
「……ここ何日か、恭司くんはここへ来ていなかったね。その間、彼はツールが壊れるほどの感情と戦い続けてたんだ。きっと感情を外へ出さない代わりに、内側へ溜め込む癖があるんだろうな。心を殺すほどの激情に耐え切れなくて、彼のツールは暴走してる。所有者を乗っ取ってる状態。まあ、ツールを引っぺがせば良いだけなんだけど」
そう言って黒いぼろきれの布を体から外すと、僕の背中にかけてくれた。この世のものとは思えないほど軽い布。
「彼の感情が全てツールに注がれていたならば、きっと更に大事になっていたでしょうね」
「負の感情を吐き出せるような出来事があったんだろうな、きっと。それだけは不幸中の幸いかな」
二人の会話が遠い。歪な恭司くんの姿が、今も頭に焼きついている。
背後から冷たい気配を感じて、首を少し後ろに向ける。そこには、機械みたいになった恭司くんの姿。
彼が戻ってくると信じて、僕は寝ずに『Doppel』を続けていた。
その間にも彼の傷は開き続け、予想以上に深くなってしまっていた。
なんだか物悲しくて、彼を直視できない。思わず泣き叫びそうになるのを堪える。
「……恭司くん……!」
僕は思わず振り返り、その場に留まった。
「夏帆ちゃん!?」 「平沢さん!!」
僕の眼前に、轟音と共に鉄の刃が迫る。空を切り裂く音。
がつっ、と音がして、左腕がしびれる。
気が付けば、僕の腕は盾に守られていた。黒い景色の中、眩しい白の大盾。
右腕に握られているのは剣だ。これが僕の――ツール?
「……! …………! ……!」
まるでノイズのような、聞き取れない恭司くんの声が鼓膜を振るわせる。
僕は今から剣を振るう。彼を傷付けるためじゃなく、救うために。
だから、躊躇はない。
僕は白い鉄の剣先で、思い切り彼の体を突いた。
姉の居なくなった部屋。
俺はヘッドホンを頭に装着した。
休息する前にやらなければならない事がある。あの三人に会いに行かなければ。そして、言いたい事が山ほどある。
目を閉じ、ヘッドホンの再生ボタンを押した。
意識が『Doppel』の世界に引き込まれていき、現実は遠く過ぎていく。
その景色は、ただ黒かった。机も壁も天井もパソコンも本棚も蛍光灯の光すらも、何もかも。
遠くから三人の気配を感じる。きっと学校に居るのだと、根拠のない直感がそう告げている。
俺はふわりと宙に浮き、窓を開いて飛び立った。暗い空、灰色の雲、見える景色はまるで影のようだった。
ふと、現実で聞いた姉の言葉を思い出す。あの温かな言葉は、俺に微かな希望を与えてくれた。しかし、体と心が完全に立ち直れるのはずっと先の事のように思える。俺は、幸せに生きていけるのだろうか?
自己嫌悪と、したくもないような思考とを強引に途切れさせた。なんだか、体中が痛い。
闇そのものを思わせる場所で滑空を繰り返し、ものの数分で学校に着いた。校舎は黒い石の塊になっている。
校庭の真ん中に、人影が三つ立っているのを見つけた。平沢と、ヒノビウス、それからメディシン。
地面へおりる。瞬間、視界がくしゃっと歪んだ。
なんだか体中の痛みが増している。右手から広がるようにして体を覆う痛みは、まるで棘に巻きつかれたようだった。
歪んだ視界の中、ヒノビウスがはっとしたように俺を見た。
直後、六角形のツールが辺りに幾つも現れる――これは、いつものツールではない。俺を矯正するためではなく、他の何かの目的を持って動いているようだ。
六角形全てから放たれた黒い光線が俺の体を幾つも貫き、激痛が身を焼いた。
少し離れた場所に、メディシンはただ立っていた。目の前がぼやけ、その形すらほとんど見えないが、俺を見る目線だけが深く伝わってくる。それは酷く悲しげだ。
その小さな両手が黒く光った。向けられた手の平から透明の銃弾が撃ち出された。
避ける事が出来ず、俺の胸に鋭い痛みが突き刺さった。耐え切れずに膝が折れる。
降り注ぐ光線の雨。弾丸の嵐。
俺の意識は混濁を経て、途方もなく深い暗闇へ沈んでいった。
まるで自我を乗っ取られるような絶望感。心を侵していく感覚のハッキングは、俺の魂をすっぽりと包み込んだ。
*
パソコンの画面に表示された月日。それは何時の間にか土曜日になった。体も頭も不調のままで、時間の感覚は既に麻痺しきっている。
俺はパソコンの前に座ったまま、ろくに寝もせず情報を集めていた。
死後への門を開くと云われるドラッグ――通称『Gate』。ドラッグ使用者の交流掲示板では、その噂がまことしやかに囁かれている。
きっと、このドラッグの存在自体がデマなのだろう。心の何処かでそう分かってはいても、俺はそれを渇望した。
しかしネットの海は俺を嘲笑うかのようだった。どのウェブページにもそのダウンロードリンクは存在しない。視界に飛び込んでくる情報は偽り、ガセ、出任せの濁流。もはや探す事すらままならない。
「恭司ー」
背後で戸を叩く音がして、俺は振り返る。固まった首がぎしっと軋む。この時間帯、家に居るのは姉だけだ。
「恭司、入ってもいい?」
パソコンの画面に映るウィンドウを咄嗟に閉じ、「ああ」と答える。
「お邪魔するよー」
姉は部屋に入るなり、部屋の寝具に腰掛けた。
パジャマを着たままの姉は、寝具に敷かれた布団へごろんと倒れる。
「まだ体調悪そうだね。大丈夫?」
「余裕」
「嘘だ。なんだかクマが酷いし、顔付きもおかしいよ。眠れてないんじゃない?」
「平気だって。心配しなくても良いんだよ、姉貴」
俺はパソコンの電源を落とし、姉の視線を誤魔化すように伸びをした。固まった体が少しずつ解れ、鈍い痛みが走る。
先程まで天井を仰いでいた姉が寝具から起き上がり、歩み寄ってから俺の目を直視した。
「あのさ……恭司、何かあったの?」
その言葉は、俺の心に微かな動揺を生んだ。しかし、心を押し殺す癖が、感情を一瞬で平に戻す。
「何もない」
「もう長い付き合いだもん。悩みとか、隠さなくても良いんだよ。何があったのかは分からないけど……お姉ちゃんが力になってあげられる事なら、言ってほしいかな」
姉のお節介は今日に始まった事ではない。手を差し伸べられ、救われた経験は一度や二度ではない。俺は姉貴を心の底から信頼している。だが、今回ばかりはその優しさを跳ね除けてしまいたくなる――しかし、俺の口は正直に言葉を紡いでしまった。
「自殺した友達を思い出した」
重い沈黙、静止した空気。姉の表情が、驚愕と不安に染まった。
「俺と姉貴が小学校に通ってた頃、いじめられて自殺した女子が一人居ただろ。いつだか集会の時に校長が話してたはずだ。あいつと俺は……今思えば、恋仲だったんだろうな」
「…………あ、あのさ、辛いなら話さなくても良いんだよ……無理しなくても……」
「俺は大丈夫だ。むしろ、姉貴の方が無理してる」
姉は半泣きの顔で、俺の両肩にそっと手を置いた。
「私は平気。続けて」
「……ああ」
その瞳に、何時になく真剣な光が宿っているのを感じて、思わず気圧される。
「……なんだか、考えれば考えるほど、あいつの死が悲しいものじゃなくなっていくんだ。あれ以来、色々とセーブをかけ過ぎたんだろうな。もうあいつの顔すらほとんど思い出せない。体調が悪くなる事はあっても、悲しくなったのはほんの一瞬だけだった」
「恭司は昔から、そういうのが体調にだけ出ちゃうんだよね。だから心配なの。ここまで体調悪そうにしてる恭司、初めて見たもん」
「多分、今までで一番苦しい発熱だと思う。もうほとんど何も感じないが」
言いにくそうな声音で姉が言う。
「表面に出ないだけで、きっと心は不安定になってるんだと思う。近くに心を治療してくれる病院があるから……行こうよ、お姉ちゃんもついていくから」
「そうすれば少しは現実を見れるかもしれないな。でも……言いたくはないが、死んだ人間は永遠に帰ってこない。俺がもう少し頑張ってれば、あいつは死なずに済んだのかもな、って考えが頭の片隅にある。あいつの自殺の原因は複数人からのいじめだった。良い死に方では絶対になかったはずだ。せめて、俺もあいつと同じぐらい苦しまなきゃならないと思ってる」
俺は椅子から立ち上がった。顔をしかめるほどの頭痛と目眩が脳を覆っている事に気付く。足に床の感覚が無く、危うく倒れそうになる。
「……あいつが死んだのは、俺のせいでもあるんだ。あの時、もっと深い場所まで手を差し伸べてやるべきだったんだよ。俺は」
「どうしてそんな事言うの? 恭司が苦しむ事なんて……あの子は絶対に望んでない、と思う」
その言葉は、俺の心を深く貫いた。心に開いた穴からおぼろげだった小学校時代の記憶が引きずり出されていき、思考を埋め尽くす。
楽しかった記憶、悪夢のような瞬間――今は亡き、幼い恋人の笑顔。
「……そうだな。今の俺を見たら、あいつはもっと悲しむか……。ごめん、周りが見えてなかったみたいだ」
姉のか弱そうな双眸から、幾つも涙が流れている。俺は泣きこそしなかったものの、心に感じた事もないような感情が芽生えるのを感じた。
「どうして謝るの?」
「姉貴に負担をかけたろ。それに、俺の考えは曲がってた」
「むしろ、今後はもっと姉ちゃんを頼ってほしいかな……あと、色んな人と関わって、みんなで幸せに生きていってほしい。あの子もきっとそれを望んでるよ」
「…………ありがとう、姉貴」
姉の目に、真っ直ぐ視線を向ける。
「少し休む。月曜になったら学校があるしな」
「分かったよ。ゆっくりおやすみ」