皇位継承問題:伏見宮家のタブー鍛冶屋問題を検証してみる | 魁!神社旅日記

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さて、正統皇統(男系)維持にかかせない世襲親王家・伏見宮の系統についてであるが、

 

某匿名掲示板ではさかんに「鍛冶屋の子孫」なる誹謗中傷が行われ、その正統性を

 

貶めようとしている。

 

そこで、今回、その件について私も実際に調べてみることにした。

 

 

<貞致親王(さだゆきしんのう)>

 

邦尚親王第一王子、母は安藤定吉の女、藤原定子なり、寛永9年(1632年)5月27日誕生なり、(「伏見宮実録」第八巻、

 

「伏見宮系譜」)

 

(*ウィキペディアでは貞清親王の子の説を採用しているようであるが、上記資料上では邦尚親王の子となっている)

 

萬治三年(1660年)6月27日に後水野尾天皇(法皇)御猶子となり親王宣下(「伏見宮系譜」、「伏見宮家代々親王宣下元服類聚」)

 

 

貞致親王の出生については

 

一、貞致親王の母儀は伏見殿諸大夫三河守安藤藤原定元の女、定子(少納言・慶長八年生まれ)が伏見邦尚親王に

仕え、寛永九年五月廿七日に丹州小口村にて生んだ幼名峯松君。定子はその後出家して号は仙壽院と名乗ったが

4年後の5月3日に没。慈眼院心和光清大姉、京千本浄光寺(「津田蔵書安藤家系」)

 

一、貞致親王誕生以来承応元年(1652年)貞清親王之依御招到于御帰洛之年二十一年之間於于定次宅奉養育也、

定次者定元之男定子の弟也、(実録掲載の異伝)

 

一、貞致親王依讒言自承応二年到于萬治三年御沈淪、七年之間、母儀ノ妹ナル者依為明珍妻、於于明珍宅奉養育云々、

明珍者理忠氏也、(実録掲載の異伝)

 

一、承応元年貞致親王御童形形廿一歳ニシテ自丹州御帰洛、是貞清親王ノ依御招也、到于茲於于定次ノ宅奉養育

二十一年、此時宗氏供奉リ伏見殿諸大夫生島右京亮盛勝、内本左京亮吉泰等、興邦道親王ノ母儀謀ッテ、讒貞致親王

於貞清親王、依之貞致親王御逼塞、承応三年7月4日貞清親王薨去、邦道親王薨去、  貞致親王廿三歳伏見殿

御惣領無紛之條就于傳奏閑院大納言野宮大納言所司代板倉周防守訴訟之萬治三年依于武命板倉周防守参入貞致親王

逼塞ノ御所、而奉渡御親王沈淪七年、萬治三年7月廿七日元服後水尾院東福門院御猶子タリ、宗氏貞致親王ヲ

二十一年於于定次宅奉養育亦先途之依功労蒙諸大夫ノ命云々(「津田宗氏秘記」)

 

一、定為ハ寛永四年四月十四日抱琴園ニテ生レ、安藤新五郎ト称ス二十五歳(慶安四年(1651年))ノ秋伏見殿

貞致親王(時ニニ十歳)御母儀少納言(定為ノ姉、実ハ叔父定吉ノ娘)共ニ竹園ヲ出テ定為ノ家ニ依リタマフ、其故は

貞清親王の御次男邦道親王の御母儀と御長男邦尚親王の母儀、寵をねたみ、且つその所生を立んとして讒言むつかしく

其余響貞致親王及び御母儀少納言にまで及びたればなり、然るに承応三年七月、貞清親王及び御次男邦道親王モウチツヅキ

御薨去、且つこれよりさき、御長男邦尚親王も既に御薨去にましませば正く竹園の御家督は貞致親王にまぎるる事なき

なりしが、仙洞(後水尾院)の皇子あまたましければ、江戸へ申させたまひて、伏見殿へ入れまいらせ、則ち貞清親王の御嗣たるべき

貞致親王は御出家あるべき御内意にてありしかば、定為はこれを聞き竹園の一大事とし、庭田雅純朝臣・三木冬仲等と相議して

貞清親王の御嫡孫にして邦尚親王の御子たる貞致親王のまします由を京都所司代板倉周防守より江戸へ執し申されん事を

訴へらる、その程の労役或は防州の館(二條)又は江戸下向など、定為独り當り玉ふ、公儀明察にして仙洞の叡慮空く

ならせたまひ、貞清親王御利運をひらき、伏見殿御相続ましましけるはひとへに定為の力なりと世の人も感じ侍りけるとぞ

(「安藤家由緒書」定為ノ傳)

 

一、貞致親王は伏見殿〇〇親王の御子、丹波国〇〇と云所へ養子と成給、十二三ノ時西陣理忠(理力)と申鍛冶の

弟子に御成十八歳迄名長九朗と申、今度御跡目之故吟味有之、再度世に出給事也、鍛冶も事外きょうの由取沙汰

有之、不思議之沙汰有之、委細重而可注事也、萬事久我右大将廣通卿指南後見有之、邦道親王の御舎兄之由也、

下戚之由也、(「忠利宿禰記」)

 

 

以上の文献による諸説をまとめると

 

1632年(寛永九年)生まれ、丹波国小口村(「実録」)

(1644年~1650年、長九朗と名乗り鍛冶理忠の弟子として修行(12、13歳~18歳)(「忠利宿禰記」))

1651年(慶安四年)讒言により母と定為の家に出奔する(19歳)(「安藤家由緒書」)

1652年(承応元年)貞清新王の招きにより帰洛(20歳)(「津田宗氏秘記」、実録掲載の異伝)

1653年(承応二年)~1660年、讒言により御沈淪、明珍(理忠)宅にて養われる(21歳~28歳)(異伝)

1654年(承応三年)貞清親王、邦尚親王、邦道親王薨去

1660年(萬治三年)親王宣下(28歳)(「伏見宮系譜」等)

 

母方の安藤家ももともと伏見宮家の家系で伏見宮邦輔親王の子・喜多丸(のち邦茂)(享禄三年生まれ)が

母とともに都の騒乱を避けて丹州桑田郡千歳郷尾口(小口)の里へ隠れ住んだのが始まりという。

二代目から母方の安藤氏を名乗る。

二代目安藤満五郎定實

三代目安藤新太郎定明

四代目安藤新五郎定為

 

偶然、検索で引っかかったが、定為の子に安藤為章という国学者が出た。

経歴に小口村、安藤定為の子として生まれ、伏見宮に出仕したのち兄の為実と

ともに水戸の水戸光圀に仕え、その後江戸彰考館寄人として数々の国学の本の編修に携わったというから

小口村安藤家の実在は確かである。

 

問題の鍛冶屋であるが、上の一覧でいくと異なる時期に二度も出てくる。

が、「忠利宿禰記」の方は貞致親王宣下の文章の最後の方に噂話のような書き方で書きつけられて

いるので信用度は落ちる。また親王宣下のあったのは萬治三年28歳の時と複数の文書が証明

しており間違いないので、やはり「忠利宿禰日記」の18歳というのは間違いであろう。

異伝の方が正しい時期を表しているように思われる。

そして、後水尾天皇より親王宣下を受けたのは28歳、「伏見宮代々親王宣下元服類聚」の

漢文の意味がいまいちよくわからない所もあるが、元服もこの時に行ったということだろうか。

「津田宗氏秘記」にも廿一歳にして童形をしていたというから、12~16歳で元服するという

当時では、かなり遅い。

しかし、この逆の親王宣下の遅さは貞致親王が伏見宮家の出身でなければ、この年では

ごまかしようがない年である。生まれる直前や生まれたばかりの子であればごまかしが

ききそうであるものを、28歳にもなった大の大人を連れてきて、京都所司代はじめ

天皇、公家衆、世間の目はごまかしようがない。

 

そして、西陣の鍛冶屋で働いていたとして、母方実家・安藤家の桑田郡小口村から通うのは難しいので

「津田宗氏秘記」の記すとおり、20、21歳あたりに貞清親王によって都に呼び寄せられて

いたものと思われる。

 

しかし、讒言により伏見殿から追放され明珍(理忠)宅で住み込みで働いていたということであろうか。

鍛冶屋の明珍といえば平安時代から現代に続く現在姫路にある鍛冶の名門・明珍本舗のことでしょうか。

HPでは現当主、明珍宗理とあり、貞致親王の話しに出てくる明珍理忠と「理」の繋がりがある

のも明珍家の先祖の一人ではないかと感じさせる。

 

さて上記のとおり貞致親王はかなり波乱万丈な経歴ではあるが、妃を近衛家から迎えていることや、

娘(理子女王)が紀州徳川家のちの徳川吉宗の正妻に出されていること

子の道仁親王は梶井門跡となり徳川綱吉三回忌、後水尾天皇三十三回忌の導師を務め、

霊元院の出家の戒師にも指名されて、のち天台座主まで務めたという事実から見ると、貞致親王が当時、

何の問題もない正統な伏見宮家の後継者であるとみなされいたのはあきらかである。

でなければ、後水尾天皇の子に伏見宮を継がせることを断ってまで野に下っていた王子に継がせる

わけがない。もし、出自があやしいものだとしたら後水尾天皇の子が伏見宮家を継ぐことを

断ることはできなかったはずである。

 

また、親王宣下後の寛文二年4月25日には夢想和歌会を行うが、八条宮智忠親王も和歌を寄すなど

他の親王家とも通常の付き合いをしているのがわかる。

参考までに智忠親王が寄せた歌。

 

早春霞

 

香久山や天の岩戸も春に明て 霞かかれる峯の眞榊  智忠

 

 

以上のように伏見宮貞致親王の疑惑は「鍛冶屋の子」というわけではなく、「鍛冶屋で働いていた」

という疑惑にとどまるものであり、その正統性を否定できるものは何も確認できなかった。

不確かな情報による捏造の疑惑で宮家を貶めるとは言語道断な悪質な行いで、

それを為す者の人格と品性を疑わざるをえない。

 

なお、典拠資料はすべて『四親王家実録 第Ⅰ期 伏見宮実録』 全19巻(47万5千円)(ゆまに書房)のうち

第八巻・貞致親王実録に収蔵のものである。

 

この本を図書館で収蔵しているのは、今のところ国立国会図書館となぜか〇〇県立図書館がこの第八巻のみを

収蔵しているという。あきらかにこの貞致親王の調査をしているものが他にも〇〇県にいるということだが

今のところ何者であるかはあきらかでない。

善意の研究者であることを願うのみである。

(最近、このページがよく見られているようなので、悪意ある人物による悪用を防ぐため県名を伏せさせていただきました。

令和2年3月4日)

 

(追加)

ウィキペディアでは関連ページとして「親王・諸王略傳」へのリンクがしてあるが、このページの

元となっている「ジオシティーズ」が2019年3月31日に終了となっており、見れないのが残念である。

インターネット黎明期と支えたジオシティーズと善意で文献等資料を打ち込み無料公開してくださっていた

先人達に深く感謝し、このジオシティーズの終了を惜しまずにはいられない。