「かむながら」は日本書紀、大化三年(647)4月壬午条に
「惟神<惟神は、神道(かみのみち)に随ふを謂ふ。亦自づからに神道有るを謂ふ」
として、皇祖が神命を皇孫に授け地上の主となったので、これを
「今は天(あめ)に在(いま)す神の随(まま)に」(「随神在天神」)と「斯等(これら)を悟らしめて国を治めむこと
民(おほみたから)を治めむこと」という一文に登場する。
本居宣長「古事記伝」「直毘霊」では「かれ現御神(あきつかみ)と大八洲国(オホヤシマクニ)しろしめすと申すも、
其の御世御代の天皇の御政(ミヲサメ)、やがて神の御政なる意なり」と解釈される。
明治3年、大教宣布の詔(宣教師を置くの詔)では
「今や天運循環百度維れ新なり宜しく治教を明らかにし以て惟神の道を宣揚すへきなり因て宣教使に命し天下に布教す汝群臣衆庶其れ斯旨を体せよ」
と惟神の道の宣揚が謳われた。
高光る 日の皇子は 飛鳥の 清御(きよみ)の宮に 神(かむ)ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の
(日並皇子(ひなみのみこ)の尊の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首)
「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙(ことあ)げせぬ国」(13-3253、人麻呂歌集)
(文武天皇、即位宣命、「続日本紀」)
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(以上:「天皇の即位儀礼と神仏」松本郁代 からほとんどを参照引用)
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また教派神道の一派、神習教の芳村正もちは伊勢神宮の荒祭宮を参拝した際に
ヤマトヒメノ命より仏教の南無阿弥陀仏に替わる言葉として「かみながら」(加美奈賀良)を授かっている。
彼はこれこそ「天津祝詞の太祝詞事」であると喝破したという。
(「大中臣神道の秘儀と神言」山田雅晴)