「道の友」 第七百九十号 平成二十九年七月十日発行
から部分的に紹介します。
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内田先生の伝記を繙けば、その類なかい行動力、識見、強さ、気魄等々ただ圧倒される
ばかりであるが、
(中略)
歌人としての面にほとんど着目されないのは、内田先生の顕彰を行ってゆくうえでは全く
片手落ちとならう。
「黒龍潤人歌人集(全)」(内田良平五十年祭記念として大東塾出版部より復刻刊行)
には内田先生の和歌が千五百四十首、その他、狂歌、唱歌、俗謡等三百数十章も含め
膨大な歌が収められている。
内田先生の詠歌のはじめは、碩学辛島並樹の門下にあった十五、六歳の頃といふ。
辛島並樹は筑前国学の泰斗・青柳種信の門下である。国学の修母は母鹿子の年来の
希望であったが、「國士内田良平傳」には、ことのほか熱心に古事記、日本書紀を
学ぶ内田青年の姿が生き生きと描かれてゐる。
「古事記の調べと言霊に魅了された良平は、爾来愛誦幾十遍、ついにその全文を悉く
諳んじたばかりでなく、生涯に亘ってその研鑽と愛誦を続け、不断身をもって記紀神典に
おける神々との生命の交流を続けた」とあり、炭坑へ通ふ十余里の長い道中も、綿々と
古事記の文章を誦しながら歩かれたといふ。
内田先生のお歌は、天地悠久まことに大らかで濁りがなく、雄々しく明るく清らかであり、
沁々とした懐かしさを覚える。これは、先生の稟性はもとより、青年期より記紀神典を
幾度も愛誦し、その精神を心身に自ら叩きこんで来られたことも大きいであらう。
先生には尊皇の歌が非常に多い。影山塾長は「浪人道の核心が尊皇の一点に存する
ことを一身に体現された」「真の浪人道は志士の道であり、単なる武士道や侠客道とこの
尊皇の一点に於いて異なって居る」(「歌道維新新論」)と述べられるが、
(以下略)