言霊信仰とやまとこばの力 (名古屋菅家廊下翔塾、第十回資料) | 魁!神社旅日記

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神社を旅した日記感想等をつけていこうかと思ってます

「名古屋菅家廊下翔塾、第十回資料」を入手したので、わたくしが感じた部分を任意に

 

抜粋してご紹介いたします。

 

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「万葉集」

 

神代より 言い伝て来らく 

 

そらみつ 大和の国は 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国

 

言霊の 幸はう国と 語り継ぎ 言い継がひけり

 

                                   山上憶良

 

 

葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙(ことあ)げせぬ国

 

然(しか)れども 言挙そあがする 言幸(ことさき)く 真幸(まさき)く 座(ま)せと

 

恙(つつが)なく 幸(さき)く座(いま)せば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと

 

百重波(ももへなみ) 千重波(ちへなみ)しきに 言挙すわれ 言挙すわれ

 

                                     柿本人麻呂

 

反歌

 

磯城島(しきしま)の 大和の国は 言霊の

 

助くる国ぞ 真幸(まさき)くありこそ    (巻13)

 

 

 

 

<歌道の真髄>

 

・・・万葉集の相聞歌を深夜一人で1,2時間程朗唱していた時、心の奥がスっと鎮まった体験を

 

した。・・・それは「五・七・五・七・七」という定型のリズムによって私自身の内奥が鎮魂されたのだと

 

、機会あるごとに語り続けている。

 

男女の燃え上がる恋の炎が和歌に表現されることによって、「型」を通して情念的炎は情緒に

 

変化し、それと同時に、美的世界にまで昇華されているという事実を体験した。

 

日本の歌の真髄は、その「型」を通しての鎮魂にある。魂を謳い、魂を鎮めている日本の歌道に

 

世界には類を見ない文化の本質があると言っても過言ではない。日本において「道」がつく

 

様々な文化や芸術は「鎮魂」を意味している。鎮魂を伴っているからこそ「道」がつくのである。

 

<感動を伴った大和言葉>

 

祝詞には別に「定型」があるわけではない。したがって「型」を通して鎮魂されているという

 

確固たるものは乏しいはずである。それなのに魂の底から来るこの喜びは一体何なのか。

 

それこそが大和言葉のもっている言霊の力であり、浄化の力なのである。

 

自分のそのような体験から痛感して言えることは、それは日本人の中に大和言葉があるのではなく、

 

大和言葉の中に日本人があるということである。即ち、大和言葉の使い手になってこそ真の日本人

 

と言えるのだ。この大和言葉の基本を成しているのはアイウエオの母音である。アイウエオとは感動詞

 

である。人間が感動したり、感心したり、驚いたときに自然に出てくる音なのだ。

 

この母音が土台になって父音(カサタナハマヤラワ)と結合して子音が誕生する。それによって

 

日本語は響きは大変美しいものとなり、その言霊の波動は安心と安定をもたらす。

 

この産霊(むすひ)(結び)の言霊はさらに人々に生成発展をもたらすこととなるのだ。

 

常に感動音を伴った大和言葉。大和言葉は縄文言語なのである。太古の昔、日本列島に

 

住んでいた我々の祖先が、つつましくも美しい生活の営みの中で神に祈り、大自然の生命(いのち)

 

をうたい、家族を慰め、労り続けた言葉なのである。

 

<母音の乏しい外国語圏>

 

外国語圏、とくに英語圏ではこの母音の影響は乏しい。・・・それは安心と安定をもたらすものではなく、

 

むしろ闘争本能をかきたてるものとなる。意志的発生音は男性原理、父性原理中心の波動を

 

招くのである。

 

日本の戦前、戦中において、大和言葉が希薄な言語や歌が流行した。「一億一心」「玉砕」「焦土決戦」

 

「皇国」「忠君愛国」「帝国」等々、おびただしい漢語の連発である。

 

・・・当時の日本の社会情勢は緊迫したものがあった。近代国家の仲間入りを果たした日本が

 

常に試練にさらされ続けてきたのだ。国家意識の高揚を訴え、国民全体が父性原理的色彩に

 

包まれた時期だったのである。

 

 

<魂の元郷に誘う大和言葉>

 

縄文から受け継がれている大和言葉は現代に至ってますます忘れ去られ、使われなくなっている。

 

と、同時に、人々の心の世界は頽廃し、情緒は濁り切っている。

 

・・・万葉集が一千数百年経った今日でも光を帯び、生命を帯びているのはなぜだろうか。それは大和言

 

葉の持つ言霊の力によって魂の原郷に我々を誘ってくれるからに違いない。

 

いわばしる たるみの上のさわらびの もえ出ずる春になりにけるかも  志貴皇子(しきのみこ)

 

久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ  紀友則

 

山里は松の声のみ聞きなれて 風吹かぬ日は淋しかりけり  蓮月尼

 

多分このような大和言葉に触れ続けていくうち、日本人は魂のふるさとを思い出すに違いない

 

のである。・・・肩をいからせず、気負いをなくし、心に「やさしみ」と「なつかしみ」を抱いた時、

 

すなわち魂のふるさとに回帰しようとした時、出てくるのが大和言葉なのである。

 

<三島由紀夫 辞世の和歌>

 

益良男(ますらお)がたばさむ太刀の鞘(さや)鳴(な)りに 幾とせ耐えて今日の初霜(はつしも)

 

散るをいとふ世にも人にもさきがけて 散るこそ花と吹く小夜嵐(さよあらし)

 

・・・人は死を前にして何故、辞世の句を残すのだろう。人はなぜ、歌を歌うのだろう。

 

それは多分、浄化のためである。浄化とは魂のお清めであろう。人間はことばから生まれ、

 

言葉で終わる。生涯ことばを有し、言葉が人生を決定する。その人間がどの程度の人間

 

であったかは、どのような言葉を有していたかで決定する。

 

心根とは心音(ね)である。弱音、本音の「音」である。その人の「調べ」そのものである。

 

「値打ち」ある人間とは「音打ち」ある人間という意味なのだ。

 

<大和言葉は母ことば>

 

人間はいのちのうたと歌うべきである。日本人のいのちのうたこそ大和言葉なのだ。

 

日本女性の男言葉は日本女性の自殺行為である。「いのち」を失うに等しい。

 

大和言葉は家内言葉である。屋外言葉ではない。それは母ことばなのだ。

 

・・・大和言葉は先祖代々、母を通して受け継がれてきたものである。

 

夫や子を癒し、浄化し続けてきた言葉なのだ。その言葉こそ子供たちの浄化能力に

 

つながっている。

 

・・・いつから人は優しくなれたのだろう。それは間違いなく母の言葉からである。

 

人間の生涯を決定づけるのは母のメロディー。美しい大和言葉の響きは美しい人生を

 

約束するのである。

 

「やまとうたは 人の心を種として 万(よろず)の言(こと)の葉(は)とぞなれりける」

 

これは和歌の起源論である。

 

                          菅家一比古著「母性救済」シリーズ(三)より抜粋