読書感想 「侍従長の回想」(講談社学術文庫) | 魁!神社旅日記

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この本は日本が敗戦に至る直前の1944年から敗戦後の1946年まで昭和天皇の側近として

侍従長の職にあった藤田尚徳氏の回顧録である。

 

この本には側近としてみた、戦争の空襲時の昭和天皇の様子などをリアルに伝えている。

 

「陛下は恐怖感の極めて薄い方である。

 

死生命有りと悟っておられるのか、恐怖を少しも外におだしにならぬ。

 

側近の者でも空襲の激化を心配して、あるものは恐怖にふるえているのに、

 

陛下は平常と少しも違わぬ落ち着いた挙措である。」(15頁)

 

 

また、戦前は大日本帝国の大元帥として、国民の様子も大臣や官僚等から報告を受けるだけで、

 

実際の様子はご存知ないかったのだろうと勝手に想像していましたが、昭和天皇は

 

関東大震災の時も東京大空襲の時も自ら足を運ばれて被害の様子を確認されていた事実を

 

知りました。

 

今上陛下も国内に災害あればいちはやく被災地にかけつけ被災者の方を慰問され励まされて

 

いますが、こうした皇室の国民を思いやる姿勢は戦後にわかに作り上げたものではなく、

 

じつは伝統的なものであったのだと感じました。

 

「3月18日、私は陛下に供奉して東京の空襲被害地を巡った。

 

・・・(中略)・・・

 

大達(茂雄)内相が被害状況をご説明申し上げたが、この日の御巡幸を知らぬ都民は、

 

ふと陛下のお姿をみて、驚きの表情でお迎えしていた。

 

陸軍の軍装を召された陛下は、都民のモンペ姿、防空頭巾姿にいちいち会釈しながら、

 

汐見橋、東陽公園、錦糸町、駒形橋、上野、湯島切通坂と一巡なさった。

 

車中で私に悲痛なお言葉をおもらしになったのは、湯島を過ぎるころであったろうか。

 

『大正12年の関東大震災の後にも、馬で市内を巡ったが、今回の方がはるかに無惨だ。

 

あの頃は焼け跡といっても、大きな建物が少なかったせだろうが、それほどむごたらしく

 

感じなかったが、今度はビルの焼け跡などが多くて一段と胸が痛む。

 

侍従長、これで東京も焦土になったね』(87頁)

 

 

昭和天皇を語るうえで、もっとも大きくとりあげられる問題の一つが戦争責任の問題です。

 

しかし、現代に生きる私たちは当時の日本の政治や憲法をよくわかっていないまま判断しがちです。

 

当時の大日本帝国憲法はその条文と実際の運用では大きく異なる印象のものがあり、

 

当時の人々の証言を知らずにその条文だけ見て判断するのは大きな間違いだと思います。

 

昭和天皇自身はこのように語られていたとのことです。

 

「21年の2月のことであった。何かの奏上で御前に出ると『椅子にかけよ』とおっしゃった。

 

私が椅子に座ると、陛下は心もち身体を前にゆすりながら、静かな声で語られた。

 

・・(一部略)・・この時はお声も低く、しんみりとした調子であった。陛下は単刀直入に

 

戦争責任論を口になさった。

 

『申すまでもないが、戦争はしてはならないものだ。こんどの戦争についても、どうかして

 

戦争を避けようとして、私はおよそ考えられるだけは考え尽くした。打てる手はことごとく

 

打ってみた。

 

しかし、私の力の及ぶ限りのあらゆる努力も、ついに効をみず、戦争に突入してしまったことは、

 

実に残念なことであった。ところで戦争に関して、この頃一般で申すそうだが、

 

この戦争は私が止めさせたので終わった。それができたくらいなら、なぜ開戦前に戦争を

 

阻止しなかったのかという議論であるが、なるほどこの疑問には一応の筋は立っているように

 

みえる。如何にももっともに聞こえる。しかし、それはそうはできなかった。

 

申すまでもないが、我国には厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって

 

行動しなければならない。またこの憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、

 

責任をおわされた国務大臣がある。

 

だから内政にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議をつくして、ある方策を

 

たて、これを規定に遵って提出して裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても、

 

意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない。

 

もしそうせずに、私がその時の心持次第で、ある時は裁可し、ある時は却下したとすれば、

 

その責任者はいかにベストを尽くしても、天皇の心持によって何となるかわからないこと

 

になり、責任者として国政につき責任をとることができなくなる。

 

これは明白に天皇が、憲法を破壊するものである。専制政治国ならばいざ知らず、

 

立憲国の君主として、私にそんなことはできない」(207頁以降)

 

まさに欧米流の立憲君主政治の教育を受けられたという昭和天皇の姿勢が明確に語られ、

 

また戦前の日本が間違いなく立憲君主制に基づいて運営されていた成長途中ではあるものの

 

立派な文明国であったという証の証言だと思います。

 

また東京裁判の中でも開戦当時から内大臣を勤めていた木戸幸一が

 

帝国憲法の実際の運用の事実について証言しています。

 

(以下引用)

 

キーナン検事

「陛下には実際的にこうしたらどうか、ああしたらどうかという権利はあって、

ただ紙の上に書いてある権利ではなく、陛下がもっている実際の権利であるわけですね」

 

木戸(元内大臣・木戸幸一)

「しかし、それは政治はすべて国務大臣の輔弼によって行われるという別の規定によって

制限されている」

 

キーナン検事

「法律あるいは条令にせよ政府が考慮していることは、結局陛下の裁可なくしては成立

できないのではないか。もし陛下がそれを拒否すれば成立しないのではないか、

これは陛下の拳法に基づくところの形式的権利ではなく、実際上の権利についての質問

である。」

 

木戸

「さきほど申したように、国務大臣の輔弼によって、国家の意思ははじめて完成するので、

輔弼とともに御裁可はある。そこで陛下としては、いろいろ御注意とか御戒告とかを遊ばすが、

一度政府として決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の日本の

天皇の態度である。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、

いわば慣習法である」

 

(191、192頁)

 

(引用おわり)

 

歴史的事実は、我国の先輩たちが試行錯誤しながらつくりあげつつあった立憲君主制民主主義は

 

その途中道半ばで陸軍に代表される官僚主義制にとって替わられ、国を亡ぼすにいたり、

 

民族を亡ぼす寸前で、日本古来よりの指導者である天皇によって救われたというのが

 

本当のところではないでしょうか。

 

この本全体から読み取れる昭和天皇のおひとがらは、このように政治の渦中にあられながらも

 

当時喧伝された現人神とは違う、清らかなある意味、神様のような方だなと感じました。

 

この本の原本は1961年に出されているにも関わらず、昭和天皇が亡くなるまで、

 

あるいは現在でさえ、間違った歴史認識に基づく戦争責任論が出ていることは本当に

 

悲しく、また恥ずかしいことであると思います。

 

またもっとも天皇を敬っているかのような姿勢を見せていた軍部や右翼が、じつは天皇の意向に

 

反して戦争を助長したことや、天皇の真の意向に反しているにも関わらず

 

天皇の権威を利用し、国や国民を戦争に駆り立てた事実は大きな問題で、

 

天皇の戦争責任論が今でさえあるのはこのような行為の結果であることを考えると

 

その罪はもっとも大きいのではないかと思えます。

 

もっと多くの人々がこの本を読んで昭和天皇の実際のお姿近くの様子を知った方がいいと

 

思いました。