伊雑宮御師 森和夫氏文書 | 魁!神社旅日記

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神社を旅した日記感想等をつけていこうかと思ってます

美まし国志摩、歴史に学ぶ活力

 

1、志摩市よいとこ朝日受けて

   鯛と海老とが舞い踊る おもしゅろや

   コイツワノーヒョウタンヤ ヤッソイヤッソイ

   

2、ここにおらんぞと思う(ヤマトヒメ)

   住んでよし 志摩市

 

3、持統天皇(女帝) 志摩へ行幸2度(ミケツ国)

   来てよし 志摩市

 

4、ヤマトヒメ巡行80年(倭媛世紀)

   アマテラス大神を奉じてヤマトの国笠縫邑桧原神社を1番として、22番伊勢の国

   瀧原宮、26番五十鈴の宮(内宮)、そして最終27番志摩の国伊雑宮におまつりに

   なりました。

   ヤマトヒメ93才 どこでお亡くなりになったの

 

5、ヤマトヒメ伝説とナゾ

   いつのころの話し、2000年の昔か、1500年の昔か?

   なぜ大和国を出る事になったの、 物部、曽我氏の争い

   千田(上の里千田寺跡)のナゾ

   真鶴と稲穂、大楠と石棺

   大正12年の出来事ときびしい口封じ、豊川稲荷表門扉、神田記念碑、鏡、

   鉾、勾玉はどこえ

   いばま=飯浜でご昼食(ヤマトへ塩を、和銅カイチン)

   岩がもの云うた オオムの岩がだれが云わせたヤマトヒメ」

    (おみた踊り込み唄)

   そこで一句「ヤマトヒメ 稔りたたへし 稲穂かな」

   ヤマトヒメ「このすばらしい稲穂を国々に広めてください」

 

6、伊雑宮(イゾウグウ)

   始めの大きな神の意、宇宙神、アマテラス大神を祭る、

   天照皇大神(アマテラシマス、スメラギノオオミカミ)

   伊雑皇大神、志摩の一の宮、いそべさん

   人々の祭り=おみた、ごさい、調献祭(繁栄、安全、感謝)

   不思議=国旗、国歌を使わない

   内宮の別宮、神宮125社、所管は神宮司庁、大切な森の自然(南方熊楠)

 

7、源頼朝と伊雑宮

   吾妻鏡に伊雑宮へヘイハク、砂金、白馬を献納した事が記されています。

   源頼朝記念の松5本

   「馬がもの云うた内宮の馬が、もとの磯部へ帰りたい」(おみた踊り込み唄)

 

8、苦難の歴史ー天災、人災

   白雉2年(651年)大洪水で祭事を変更

   台風で社殿が破損 1115年、1364年

   大雪で祭事ができなかった 宝亀2年(711年)

   悪徒の乱入 1181年、1219年、1498年、1532年

   寛永、寛文(1656年、1663年)事件

   徳川幕府に直訴 ご法度により打首、島流し、国外追放、中村兵太夫毒殺、

   文書没収

   人々は耐え、知恵を出しあってがんばりました。

   強い信仰心が生活の中に生き継がれました。

   民話、七本ザメ、 的矢大橋小公園 山口誓子の句碑

    「葉月潮、伊雑の宮を指して行く」

 

9、おみた、御神田、伊雑宮御田植祭、いそべのおみたさん

   日本三大田植祭(伊雑宮、住吉、香取)

   国指定無形重要民俗文化財

   始めjりは、ヤマトヒメ伝説により平安時代より

   中断 明治4年、寺社領上地令により御供田没収

   再興 明治16年(1883年)虫追い祈願として

       明治24年から今日の姿として再興

   以後、天候、戦争を乗り越え一度も休むこともなく磯部九郷で伝統を守り継承されている

 

開催日 6月24日   場所  伊雑宮と周辺

 

奉仕登板 磯部九郷  7年で1順

 

日程 (略)

 

(中略)

 

10、御師(おし)、おんしとも云う

参拝者をおみちびきし、接待おもてなしをする人。

全国津々浦々各地に出かけ、講を作り参拝をおすすめした。伊雑宮御師はその原点

だったか。

廃止、明治4年、明治政府の令により、全国の寺社全て。

残った、東京八丁堀、天祖神社、他

 

11、わたくしの実践と活動

(略)

 

12、歴史に学び、知恵を出し合って、いざ実践

志摩人は強かった。人々は神を生活の中に育て守ってきました。

生命が生きづく心の故郷、志摩の国

 

13、サアーエイエイシャントセ 元気復活

サアーは人類が発した最初の言葉、ここから思考力が発達し、文化、文明が生まれました。

唄いましょう、となえましょう、サアーエイエイシャントセ

「サアー志摩市よいとこ豊かな自然

サアー心安まる 美まし国エイエー美まし国」

 

みなさまのご繁栄、御多幸をお祈りします

御師 森 和夫 85才