「美まし氣」 みちづけ より | 魁!神社旅日記

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神社を旅した日記感想等をつけていこうかと思ってます

教派神道13派の一つ神道禊教の機関紙を読ませてもらい

 

感銘を受けた部分があったので転載いたします。

 

「古事記神話では天地開闢とともに天之御中主神が生まれ、続いて

 

高皇産霊神と神皇産霊神となり、無限の動きと旋回が生じ万物が生じる兆しが

 

生まれました。その兆しを先人たちは宇麻志阿斯訶備比古遅神と呼びました。

 

葦の芽が生える兆しという名の神です。その神に「ウマシ」という形容詞を

 

以て先人たちは称えました。「ウマシ」は「美まし」という意味の形容詞です。

 

それを私は「美楽喜」と呼んでいます。

 

この世には数えきれないほどの命、生き物がいます。しかし、その中で

 

「美」ということを求めて生きている生き物は、私たち人間だけです。

 

動物たちは子孫を残すために喧嘩をして強いものだけが子孫を残す権利を

 

得ます。強い命を伴侶として選びます。しかし私たちはそうではありません。

 

自らの心の中の「美」という価値観を持って伴侶を選びます。

 

そして自らにも問います。「自分は美しいだろうか」「美しく生きているだろうか」

 

「自分の生き方は美しいだろうか」と。それこそが私たちの心の中心にある

 

神の与えてくださった神心の働きです。

 

(中略)

 

「美楽喜」の「美まし氣」がこの世の基なのです。その「美まし氣」はわたしたちの

 

命の、心の真ん中にあります。しかし、私たちはその「美まし氣」とは反対の心も

 

持ち合わせています。それを神道では「身心」と申します。その「身心」に

 

「美まし氣」が覆い包まれてしまう。それを先人たちは「罪」と呼びました。

 

「罪」という言葉の語源は「包む」であるといわれています。黄金の壺も風呂敷に

 

包んでしまうと見えなくなります。宝の壺を包む風呂敷が「身心」だと思えば

 

わかりやすいことでしょう。その宝の壺を包む風呂敷を取り去り、中の壺を

 

明らかにすることが「祓い」なのです。つまり、天地開闢の一元一氣の

 

「美まし氣」に帰すこと、それが本日皆様とおつとめした「祓い」ということなのです。

 

(みちづけ 平成29年2月1日発行 第168号 

本部だより 大祓神事教主講和より)

 

祓いと人のもつ神性についてのすばらしい解説だと感銘を受けました。

 

教派神道の教えの中には今の神社神道にはない深い教えや行法が伝わって

 

いることがあるようです。それは神社神道は戦前の国家神道により「宗教にあらず」

 

と規定され、このような教えや宗教的な活動を禁じられていたからです。

 

それゆえ古伝の教えは幕末にでき、明治時代に宗教としての神道として公認されて

 

いた教派神道の方に伝わっている可能性が高いのではないかと思っています。