演劇評について | カラサワの演劇ブログ

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演劇関係の雑記、観劇記録、制作日記、その他訃報等。観劇日記は基本辛口。これは自戒とするためでもあります。
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恒例の年間ベストを先日選出しアップしたところ、アクセス数がこれまでの記録を更新する数となり、また、文中で取り上げた役者さんや劇団主宰者の方々から、思いがけない感謝の言葉をいただいて、こちらの方が恐縮している次第である。

 

もとより売れない演劇ユニット主宰者の心覚えのメモであり、お遊び的なベストに過ぎず、なんらの権威も権限もないものにすぎないが、ただ、多くの方から

「励みになる」

という言葉をいただいて、それであればよかったとホッとすると共に、かなり辛口の劇評を書いたところからは、怒りの矢はまだ飛んできていないものの、かなり感情は害しているだろうな、と、気の小さい身としてセンセンキョウキョウである。

 

ただひと月ほど前に、ある役者さんから言われたのだが、去年、彼の出た舞台を観に行って、かなりキツいことを文章にした。そうしたら、そこの主宰が喜んで、

「これだけの字数を使って批評してもらったのは初めてだ。“作品”として扱われた気がする」

と、ぜひ次の作品に私を呼ぶように、と、その役者さんに頼んだ、という(もっとも、それだと私の居心地が悪いだろうと思って、その役者さんは遠慮したそうだが)。

 

舞台の批評というのは、大抵は批評というよりは感想で、

「◎◎のキャラがよかった」

「迫真の演技に感動した!」

といったものがほとんどである。それらは素直な観劇後の興奮を伝えるもので貴重なものなのだが、しかし、それとは別に、善し悪しをもう少し論理的に、“なぜ”と掘り下げた分析が絶対に必要だ、とは思っていた。

 

あるゲームマニアが言っていたが、「日本人にとって批評とは難癖、いちゃもんと同義語になっている」という。

 

本来は批評というのは「制作者が気が付かなかった作品の弱点を指摘し、さらなる完成度の追求を目指すものである。ここを直せばもっと良くなるという点を指摘する。正当な批評無くして、真の発展はあり得ない」

 

これは演劇についても全く同様のことが言えるだろう。映画評論家は数多いが、演劇評論家の数は限られている。その中でも、小劇場演劇というものの、評論らしい評論はほとんど皆無と言っていい。好き嫌いではなく、具体的に、作品のどこの部分に改良の余地があるか、を指摘されることがないために、小劇場演劇ブームがあった1980年代以降、その欠点のようなものがほとんどキープされたまま、現在に至っている。

 

演劇評論という分野自体にも停滞があり、かつて(1940年代!)の、思想性を中心に批評が行われていた時代から、ほぼ進歩していない。技術論としてあるのは、いまだに十年一日のごとくにスタニスラフスキーシステムなどを金科玉条としたもの、映画や文芸の評論をそのまま借りて、その見地から全く異なるものを批評しているものなどばかりである。演劇、それも小劇場演劇というものに特化した見方、技術論、内容論が、そもそも“そういうものがある”という認識が薄いために求められてすらいない、という現実がある。

 

80年代のブームでこの世界に入り、残っている演劇人たちは、もうおしなべて40代、50代になっている。これから若い世代にバトンを引き継がせるにあたって、最も必要なのは小劇場演劇に特化した創作、実践のセオリーである。そういうものの確立を一日も早く実現させなければ、日本にこの分野での文化は根付かず、単に若い世代の自己顕示欲の発散の場として終わってしまうだろう。

 

もちろん、自己顕示欲も必要だし、メソッド演技も有効な場合がある。常に必要なのは多視的な批評であり、的確な改良への指摘だろう。非才な私にその役割は荷がかちすぎることは十分にも十二分にも承知しているが、現在、他にそういうことを目的にやっている人がほとんどいない状態ではいたしかたない。近い将来、最適任者が登場するまでのつなぎ、というか、そういう演劇評の出現をうながす呼び水として、もうしばらくこのブログは続けていきたいと思っている。