“ゴジラ”死す【訃報:中島春雄】 | カラサワの演劇ブログ

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中島春雄氏死去、88歳。

「映画『ゴジラ』(1954)で、ぬいぐるみに入り、ゴジラを演じた俳優」

と説明するのが一般的だろうが、氏の場合、なんとなくこの説明では物足りなさを感じる。イメージとしては、氏こそがゴジラである、と認識しているファンの世代が多いのではあるまいか。それくらい、両者の一体感は強い。

 

 

あれは『ゴジラ対ヘドラ』の撮影中のことだから、1971年の頭くらいのことか。NHKの公開放送番組で、会場に怪獣たちがわらわらと乱入してくる演出があった。その前年に円谷英二が亡くなっているから、追悼的な何かだったのかもしれない。舞台上にはゴジラが登場、ひと声吠えたあとで、ぬいぐるみ(当時はスーツなどと気取った言い方はしなかった)を脱いで、中の役者さんが顔を出した。当然、中島春雄氏である。アナウンサーにマイクを向けられて、ぬいぐるみの重さなどを伝えた口調は伝法でぶっきらぼうだったが、“職人(アルチザン)”という感じで決して印象は悪くなかった。これが私が中島氏〜ゴジラの中〜の顔を見た最初であった(もちろん、その前に『怪彗星ツイフォン』などで顔出しの演技を見ているが、これが中島春雄だなどとはわかりゃしない)。

 

Wikipediaの中島氏の項目には、何度か「東宝の大部屋俳優」という語が出てくるが、実際に私がご本人にうかがったところ、

「東宝には、大部屋って制度はないんだよ。俳優課に所属するものとして、三船(敏郎)さんでもわれわれでもみんな平等。ただ、本数契約か、月給制かの違いでA、Bと区別されていただけでね」

との答えだった。それまで、主に私はスターと大部屋との身分差の激しい東映系の役者さんとのお付き合いが主だったので、東宝というところの近代的なシステムに驚いたものである。そう言えば宝田明氏が語っていたところでは、『ゴジラ』の撮影スタジオに初めて入って、

「主役をやらせていただく宝田です。よろしくお願いします」

と挨拶したところ、

「バカ野郎、主役はゴジラだ!」

と怒鳴られたそうである。Bホームの、顔の出ないぬいぐるみ出演であっても、中島氏は主演なのであった。

 

「大部屋ではない」というのが東宝の役者さんの誇りではあったが、やはり実体はAホームとBホームの差は歴然としたものがあったろう。中島氏も、俳優デビュー作が黒澤明の『野良犬』だったが、出演シーンは丸々カットになってしまった。そんな扱いを受けるBホームの俳優にとり、ぬいぐるみの中とはいえ、3台のカメラを回される“真ん中”の扱いは気持ちのいいものだった。そして、14歳で海軍航空技術廠に配属され、航空機やカタパルトの整備・改良に携わっていた氏には、東北出身者特有のねばりに加え、「凝り性」と「工夫」が第2の天性として加わっていた。上野動物園の近くの親戚の家に泊まり込んでまでゾウやゴリラの動きを観察し、ゴジラの動きを“創造”していき、次第に氏はゴジラと同化していった。

 

昭和の映画は何だかんだで“手作り”であった。手作りが最高、とは思わない。いまのCG特撮にはCG特撮の利点・美点が限りなくある。しかし、手作り作品は、作品と鑑賞者の距離が比べ物にならないくらい近い。動物園の動物たちの動きを弁当持参で檻の前で観察してマスターした中島春雄の動きは“役者根性”のたまものだ。原始的で、能率的とはお世辞にもいえないが、素人にも理解できる親近性がある。中島春雄という“顔の出ない俳優”は、われわれと同じゼロの地点から、ゴジラという生物をクリエイトしていったのである。

 

東宝はゴジラのプロモートに、さまざまな行事を企画した。中島氏は、宝田明、河内桃子などと共に、いくつものイベントにゴジラとして参加した。当時のぬいぐるみは重く、とても屋外でそれを着て演技できるようなものではなかったはずだが、いくつもの宣材写真が残っている。中島氏でなくては出来ず、また、やろうという俳優もいなかったろう。これも、“俺がゴジラなのだ”という役者のプライドからの行動だと思われる。

 

特撮ファンクラブの飲み会の座敷で、中島氏に紹介されたのは1993年ころのことだった。話題はもちろん『ゴジラ』中心だったが、私はその頃、東映の潮健児さんの自伝を上梓したばかりで、潮さんから、映画社対抗野球試合の話を聞いており、

「東宝の役者さんたちの応援には必ず“お掃除踊り”というのが出て、名物だった」

という話に興味があって、“どういうものなんですか”と聞いてみた。すると、かなりご機嫌だった中島氏はひょいと立ち上がり、

「♪お掃除だ、アソレ、お掃除だ、お掃除お掃除お掃除だ……」

と、踊り出した。周囲のファンたちも手を打って唱和し、貸し切りの居酒屋の座敷が「お掃除だ」の合唱となった。黄金期の映画産業の賑やかさ、楽しさがよみがえったようなひと時だった。

 

お掃除踊り以上に、ゴジラの動きは何度も実演していただいた。いや、ご本人も実演したがった。それを見て、文字通り、この人はゴジラそのものなのだな、という認識があらたになった。ゴジラには、氏の他に何人もの演者がいるが、生前の氏にとっては、自分以外のゴジラはホンモノではなかった(何度もその言は耳にしている)。役者にとっての代表作とはそういうものなのだろう。映画評論家で、人形アニメーション信奉者の森卓也氏は、日本のぬいぐるみ方式を上等な特撮とは認めておられなかったが、某百科事典の『ゴジラ』の項目に、

「この映画で育った世代がそれを神格化して」

と書いていて、

「いや、それは森氏や石上三登志氏の世代がオブライエンやハリーハウゼンを神格化しているだけではないのか」

と苦笑したのを覚えている。人はそれぞれのコーホート(集団)でそれぞれの神を崇める動物なのだろう。

 

とはいえ、“神格化”は言い得て妙、という感じもしないことはない。そして、それを容易にしたのは、中島氏自身の、“ゴジラになりきった”パフォーマンスであったろう。

 

冒頭の放送があった(と、私が記憶する)1971年は、東宝が映画産業の斜陽から、俳優の専属契約制を廃止した年である。俳優の多くはテレビにその活動の場を移したが、「顔の出ない」俳優であった中島春雄には、その道もとれなかった。撮影所をつぶして作った駐車場やボウリング場の職員に転業して、生活を保たせていたという。あの、東宝のドル箱であったゴジラ映画の「主演」俳優を、である。義憤にかられるのは私だけではないだろう。同じことは他の映画会社にも言えるが、これが日本の文化程度ということなのだ。ハリウッドからキングコングのぬいぐるみに入ってくれ、という依頼が来たときの提示条件が

「一生食べていけるだけのギャラを支払う」

ということだったという。彼我の差とはいえ溜息が出るし、円谷監督のひと声でその話がつぶれたのも、今となっては残念としか言いようがない。

 

そんな中島氏に救いとなったのは、ゴジラで育った多くのオタクたちだった。特に海外のコンベンションでは、ゴジラを演じた伝説のスーツアクターとしてスペシャルゲスト扱いであり、それらの出演料で氏は、家を新築できたという。晩年を、その業績にふさわしい待遇で飾れたということに、限りなく安堵しているのは私だけではないと思う。

 

改めて思う。私が愛していたのはゴジラやモスラといった映画そのものというより、そういう、ある意味子供じみた作品を、命をかけて作っていたプロたちの“情熱”が発する雰囲気だったんだな、ということである。そして、その中心には“ゴジラである”ところの、中島春雄氏がいた。間違いなく、ひとつのレジェンドであったと思う。その死は一個人の死ではない。ゴジラ(昭和のゴジラ)の死、なのだ。

 

ご冥福を祈る。