私の両親はインドのアシュラム経験者で、

物心がついた頃には、

時にそれぞれが自室にこもり

瞑想をしているような

そんな家庭環境に生まれました。


瞑想は1時間ほどのプログラムで

『ちょっと瞑想してくるから』と

言って部屋に入ると暫く出てこない。


部屋から漏れて聴こえてくる

OSHOクンダリーニ瞑想の

リズミカルな木琴楽器の音色は

今でこそ神秘的ですが

子ども心には焦燥感を感じ、

両親が知らない人のような

遠くにいってしまいそうな

気になるので嫌でした。


私には姉が2人いますが

少し歳が離れていて

両親も共働きでしたから、

そんなわけないのですが

幼児期は誰かと遊んだ記憶よりも

近くの雑木林に探検したり庭で遊んだり

母の勤める喫茶店に遊びに行ったり

当人には1人で過ごした記憶の方が

濃く残っています。

(これは後に行動力となり

とても強みとなりました。)


そうした影響もあるのか、

白い着物に赤い袴を着た家族全員が

山の鳥居へと向かうのを追いかけては

「お前はついて来るな」と

置いてけぼりにされる同じ悪夢を

見ては泣いて起きたものです。


誤解ないよう

私はちゃんと愛されて育ちました。

数年前までこうした記憶の一部に対し

寂しい思いをしたなぁ、、

とは思っていました。

次元が変わり

振り返って思うことは、

両親は家族の単位があろうと

自分を偽らなかったのだと。

こうした霊性への入り口を

見せてくれた人生で最初の

師でいてくれたことに

心から感謝しています。


OSHOクンダリーニ瞑想




1時間の瞑想を経て、

室内から出てくる親は

幼い子どもから見ても

何か憑き物がとれたように

スッキリとしているので

瞑想とはよく分からないけれど

あんまり好きではないけれど

両親にとって、人にとって

良いものなのだなと

なんとなく理解することにしました。





小学校高学年にもなると、

成長期を迎えて精神が育ち始め、

思春期独特の葛藤やモラトリアムの中で

自宅に精神世界の本が

たくさんあったので

自然と読み始めました。


でも何を書いているのか

サッパリ分かりませんでした。


ブラフマンって?

アートマンって?


人生経験を伴わない子どもには、

とても内容が高度で

更には和訳特有の言葉の構成は、

理解しがたいものでした。


手塚治虫のブッダや、

一休宗純の漫画なども

転がっていたので

読みやすいものから読み進め

そのうちに何となく

人には輪廻転生があること、

カルマがあること、

解脱というものがあることを

認識していきました。


こうした認識は一種の歪んだ認知となってしまい、

人は生まれたからには

「素晴らしい人」にならなければならない、

正解不正解を前提とした正しさの選択、

輪廻転生を終わらせねば

ならないという小さな脅迫、

この「教え」を体現していく

生き方をせねばならない、

といった価値観を少しずつ形成していきます。



いつも孤独を感じていました。

人の中に入れば入るほど

孤独を感じるのです。

当時は言語化が難しく

なぜなのか分かりませんでした。


初潮もとても早かった上、

歳の離れた姉がいて

家庭の影響もあり

早熟だったのだと思います。


その孤独は、

物事を深く感じたり考えたり

探求していく強みを与えてくれました。


つづく