【からはだふくらか】によって、すべてのいのちは、最期のその瞬間まで、芯の通った快い軆で、愉しく、悦び、満ち溢れる毎日を贈ります。
わたしは、最期の瞬間まで成長し続け、すべてのいのちへ感謝をし、感謝を受け、豊かな日々を贈れます。
ありがとうございます。
お元気さま
人は200万年前に新しい脳が古い脳を覆い尽くしたのだそうで、それは本能を知識でカバーしたということになるんだとか。
それが動物の本能では恐れるべき"火"を扱えるようになったということに代表される
「人間に特有の世界との付き合い方」
の始まりです。
それからかなり時代を下ってから「木の実」を栽培するということが行われるようになったようです。
栽培する動物は他にもいますから
「経験から"ある行動"がひとつの結果をもたらす」
ということまでは本能でも考えることが可能なのでしょうね。
経験から危険を避ける、などという知識の積み重ねはあるはずですし、動きが複雑化するほどに「教育」を行う動物も現れます。
躾や調教というのも、悦ばしい未来があることを予測できるからこそ行えるもの。
そこではやはり"本能が主体"ということになるのかと。
つまり「今」を十全に生きるための過去であり、未来です。
どれくらいまでの未来予測が出来るのかは動物によっても違うでしょうし、分かりませんが、しかし少なくとも年単位で未来のために行動する動物は人間以外にはいないでしょう。
「未来をこうするために今こうあるべき」
という想いが勝り「今」が蔑ろにされるようになったのは、本能が覆い隠されたためなのでしょうね。
しかし、そこには大きな危険が潜んでいます。
今回お伝えしたいことは
「未来」に傾きすぎて「今」を犠牲にすることになると「望むべき未来」は遠退く
ということ。
農業と時間は切り離せません。
未来の収穫をを期待、予測できるからこそ、種を植えるワケです。
大事なのはこの「未来」が本当に望むべきものなのかどうか。
何がどうでも
「未来にそれをしている自分であるために」
なら、今の"大変さ"は納得できる充実したものです。
「望むべき未来の自分」に近付くための成長こそが悦びとなります。
ぶっちゃけ「望む未来」に辿り着けなくても、その歩み自体が愉しみであり、悦びとなるので「迷い」が生まれる隙も無く「今」も充実します。
この時、心も身体も十二分にその力を発揮できるのが人という生き物です。
ところが「未来にそうある自分」が本当に望んでいるものでない場合、我慢や努力、モチベーション、などが必要になってきます。
常に今自分の行っていることが正しいのかどうかを自問自答する必要があります。
「今」が犠牲になるとその代償として「辿り着くことが必至」になります。
「辿り着けない」と悟った時「今までの全ては無駄になった」と感じられます。
本当に心の底から望んでいようと、そうでなかろうと、望む未来に辿り着ける者はそう多くは無いかもしれません。
ですが、後者はより辿り着ける確率が少なくなります。
それは無理をして、我慢をして、頑張らなくてはならないから。
「やりたいこと」をやっている時、これらは必要ありません。
「やりたいこと」をやっているということは身体も心も悦んでいる状態です。
一方の「努力」「根性」が必要なことをしている時は、身体にも心にも大きな負担が掛かっています。
そんなことを続けていれば間違いなく病みます。
望んでいないことをする時、身体と意志には齟齬が生まれます。
身体と意志がバラバラだから怪我をしやすくなるのです。
身体と意志がバラバラな状態というのは感覚も鈍いということ。
危険を察知する能力も衰えますから、事故に遭う確率も増えます。
動物が察知できる危険を人間が感知できない理由はここにあります。
当然、辿り着ける可能性も低くなります。
よしんば辿り着いたとしても、果たして十全に楽しめるだけの気力、体力が残っているかは微妙。
辿り着いたことで燃え尽きてしまうこともあるでしょうし、ガタが来ていれば折角辿り着いたのに棒に振らざるを得ない、なんてことにもなりかねません。
つまりどう転んでも「今を犠牲」にした未来はまず悦ばしい、望むべき未来にはならないということです。
「望むべき未来」に辿り着くためにこそ、今が充実していないといけないんですね。
1秒後にあなたが生きている保証はどこにもありません。
今死んでも後悔はありませんか?
今死んだら後悔が残るという人ほど、死ぬ確率は高いんですよ。
そして、どっちの社会、どっちの世界の方が未来が明るくなりそうか、って考える迄も無いと思います。
呉々もご自愛くださいますよう。
ご機嫌好う。
2022(令和4)年10月7日
○現時点においては、個々の死亡事例について新型コロナワクチンとの因果関係があると結論づけることのできた事例は認められない。
○死亡例の報告に関しては、現時点においては、4回目接種後の事例も含め、引き続きワクチンの接種体制に影響を与える重大な懸念は認められない。
【緊急】夏休み前に提出、子どもたちへの新型コロナワクチン接種の停止を求めます。
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「私が実験室の内外で発見した病気の原因は、医薬品、食品、空気、土壌、水の汚染です。
ウィルスには核が無く、生きていない。」
・・・・Aajonus Vonderplantiz
「ウイルスは、単に有毒細胞の排泄物です。
ウイルスはDNAまたはRNAの断片であり、他にいくつかのタンパク質がある。
それらは細胞から出る。
その反応は細胞が毒されたときに起こるもので、病気の何の原因にもなりません。」
・・・・ Thomas Cowan MD
ウィルスが生物でない、という意味がこれで分かります。
ウィルスは原因では無く、結果だってことですね。
病気の人の身体を見たら、そこにウィルスってのがいた。
その状況証拠だけで、病気の原因に仕立て上げられた、えん罪です。
スパコン使って呼吸の行方を追ったりしてますが、その中にいるとされるウイルスがじゃあ、誰かにくっついて、増殖して、症状が出てっていう現場を捉えた人はいません。
全部「あの時に感染したんじゃないか」と思われますっていう、憶測だけ。
ウイルスが原因でなく結果なのだとしたら、ウィルスが増殖しているように見える、ということは、つまり、身体が毒に素晴らしく反応したっていう事です。
その方が話がスッキリします。
ウイルスが原因なのだとしたら、感染する、しないっていう違いを説明できませんからね。
そこが免疫力の差だというのであれば、じゃあ、免疫力を下げないように暮らせば良いってことです。
いずれにしたってウイルスの問題じゃないってことでしょ。
病気を怖れる心は身体の力が低下していることから生まれてる。
それだけのこと。