皆さま、ご無沙汰しております。
2026年を迎えましたが、いかがお過ごしでしょうか?
わたしはというと、新しく仕事を初めて、新生活をエンジョイ中です。
昨年から色々と意識の変化もあり、そのことについてはまた改めて書きたいと思います^^
さて、画像は伊勢の注連飾り。
伊勢では、お正月が終わっても注連飾りを外さない風習があります。
三重県の中でも伊勢特有のものらしく、
はじめて目にしたとき、氣が良くてとても素敵だなと感じました。
写真はお店のものなので「千客万来」と書かれていますが、
一般のご家庭では「蘇民将来子孫家」と記された木札が掛けられ、厄除けの意味を持ちます。
これは、スサノオノミコトが旅の途中で宿を求めた際、
貧しいながらも温かくもてなした「蘇民将来 ソミンショウライ」に由来するものです。
どのようにもてなしたかというと、
自分が食べるはずだった粟のご飯を炊き、
布団がないため、粟の茎を編んで座布団や寝床を作ったと伝えられています。
実はスサノオは、その前に裕福な弟のもとを訪ねています。
しかし弟は、スサノオの貧乏くさい姿を見て、家に入れることを拒みました。
弟は金銭的には裕福だけれど、心は貧しかった。
蘇民将来は金銭的には貧しかったけれど、心は豊かだった。
貧しいながらも心づくしでもてなした人は、
後に神さまから子孫繁栄の約束を受ける。
一方で、裕福であっても見た目で人を判断し、門前払いをした人は、何も得なかった。
こうしたわかりやすい因果応報の物語を、私たちは長い間「道徳」として教えられてきました。
「たとえ貧しくても差し出すのが人の道」
「そうしないと罰が当たる」
「善いことをすれば報われる」
でも、もし、この理解に落ち着いてしまうと、
行為の奥にある〝自然な心〟が、見えなくなってしまう気がするのです。
ここで語られているのは、「正しくあれ」ではなく、
目の前に、困っている人がいるという事実に、心がどう動き、どう行動するか、その一点なのではないでしょうか。
宿がなく、食べるものもなく、困っている人がいる。
そのとき、
損か得か、
正しいか間違いか、
評価されるかどうか、
そんな思考が入り込む前に、
ただ、この人に安らいでほしい
その気持ちが、自然に湧いてくる。
それこそが、人間の本来の姿なのではないかと感じます。
聖書にある「善きサマリア人」の話も、
同じことを伝えているように思います。
肩書きや立場、正しさに捉われた人たちは通り過ぎ、
何にも捉われていない人が、理由なく手を差し伸べる。
そこでは善行そのものではなく、
分断される前の、まっすぐな心の動きが現れています。
伊勢の締め飾りの物語も、
「こうしなさい」という教えではなく、
「自然な心の在り方」を思い出させてくれる話なのかもしれません。
そして大切なことは、「あれをしたからこうなる」という因果応報があるという考え方よりも、
あるのはいつも「今・ここ」だけであり、そこで結ばれている予測不能な縁のつながりなのだ、ということなのだと思います。
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