前に「トイレ」のところで、私が勤務していたジャカルタ郊外の、工場近くの川沿いにあったインドネシアの「トイレ」を見て、日本で「厠」と言うのは「川屋」とも書き、この川岸に作られたトイレと同じものが日本にもあったと書きました。たまたま谷崎潤一郎の短編集を読んでいたら、その日本の厠(川屋)のことを克明に記したものがあったので、その一部を以下にご紹介します。

 

「厠で一番忘れられない印象を受け、今もおりおり想い起すのは、大和の上市の町で或る饂飩屋へ這入ったときのことである。急に大便を催したので案内を乞うと、連れて行かれたのが、家の奥の、吉野川の川原に臨んだ便所であったが、ああ云う川添いの家と云うものは、お定りの如く奥へ行くと一階が二階になって、下にもう一つ地下室が出来ている。その饂飩屋もそう云う風な作りであったから、便所のある所は二階であったが、跨ぎながら下を覗くと、眼もくるめくような遥かな下方に川原の土や草が見えて、畑に菜の花の咲いているのや、蝶々の飛んでいるのや、人が通っているのが鮮やかに見える。つまりその便所だけが二階から川原の崖の上へ張り出しになっていて、私が踏んでいる板の下には空気以外に何物もないのである。私の肛門から排泄される固形物は、何十尺の虚空を落下して、蝶々の翅や通行人の頭を掠めながら、糞溜へ落ちる。その落ちる光景までが、上からありあり見えるけれども、蛙飛び込む水の音も聞えて来なければ、臭気も昇って来ない。第一糞溜そのものがそんな高さから見おろすと、一向不潔なものに見えない。」(谷崎潤一郎「厠のいろいろ」から)

 

天下の大作家がこのように、日本の建築の中で一番風流にできているのが厠、とまで書いているのには感心しますが、谷崎がこれを書いたのは昭和10年(1935年)ですから、彼の描いた厠はもはや今の日本ではお目にかかれないと思います。ひとつインドネシアのトイレと違うと思われる点は、谷崎の書いた厠には「糞溜」があり、インドネシアのように川に流していないことです。当時の日本ではまだ有機農法が一般でしたから、貴重な肥料となるものを川に流してしまうことは無かったのです。

 

(チルボンの漁港)

 

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