私がジャカルタに駐在していた1990年代初めの頃は、インドネシアの玄関口であるスカルノハッタ国際空港から、首都ジャカルタの中心までの有料道路沿いに街灯が無く、夜中に車で走ると車のヘッドランプの光が、水平線に吸い込まれるように暗闇を引き裂く様がちょっと寂しく感じました。

 

もっともその10年前の1980年代に駐在した方々のお話を伺うと、当時の国際空港はジャカルタ市内のクマヨランにあって、今は軍用飛行場となっているハリム空港を使っていたそうです。日本から来る飛行機の到着は夜中で、飛行機から飛行場の滑走路に降り立つと周りが真っ暗、まさに星あかりの中を空港の税関の事務所まで歩かされ、これからの駐在生活がとても不安になったと聞いたことがあります。

 

そんなインドネシアでしたが1990年代前半、アセアン各国への日本や欧米各国の外国投資が盛んになった潮流に乗って急激な経済発展を遂げ、1992年9月には非同盟諸国首脳会議がジャカルタで開催されることになりました。この会議はインドネシアの初代大統領であるスカルノが、1955年にバンドンで第1回アジア・アフリカ会議を開催したことに由来し、発展途上国が集まって相互協力を模索していくもので、当時の大統領スハルトもインドネシアの経済発展に自信を得たのか、ジャカルタ開催を決意したようです。

 

その時にスハルト大統領は、会議に集まる世界各国の首脳にインドネシアの経済発展の成果を示そうと、ジャカルタの街をひたすらライトアップすることに努めました。街中のビルはもとより、前述の空港と街の中心部をつなぐ有料道路も例外に漏れずに街灯が配置され、以前のような暗闇を車が突き進むのとは様変わりしました。

 

当時ジャカルタでは急激な経済発展に電力の供給能力がついていかず、工場や住宅街では停電が多発していたのですが、ジャカルタの街の中心部だけはそこここに煌々と灯りが点いているのには、何ともおかしな気がしたものです。暗闇を明るくすることは、人間にとって本能的に安心感を与えるものなのでしょうが、さらに為政者とっては、自らの見栄を満足させるものに他ならないようです。

 

1978年中国の最高指導者として戦後初めて鄧小平が日本に来たとき、夜の東京銀座の街並みがとても明るいのに驚いて、帰ってから北京の街を明るくしようと、裸電球の街灯を街中に設置したことがあります。しかし当時は改革開放政策が実施される前で、広告看板の類も数えるほどしかありませんので、そもそも街全体がセピア色の風景だったところに、道を走っているのはもっぱら自転車が主で車もまばらな状況でしたから、裸電球で照らし出された夜の北京の風景は、本来の趣旨とは逆に寂しいものになってしまいました。

 

昨今の中国、特に沿海部の都市は急激な経済発展で街並みが著しく変ってきていて、上海では摩天楼が林立し、ビルばかりでなく高速道路の壁面までがライトアップされている様はまさに不夜城そのもので、さぞや鄧小平が生きていれば大喜びしそうな光景です。暗闇に対する人類の葛藤は、インドネシアや中国のようにどこへ行っても同じようです。

 

(夜景@ジャカルタ)

 


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