第二回目は、事件直前の内容になります。
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私は高校卒業後、印刷関係の会社に就職しますが、転職を繰り返すこととなります。
しかし、30歳の頃、正社員ではありませんが、半年契約更新の期間雇用社員として、外資系製薬会社、B社に、倉庫作業員として採用されます。そして、ようやく生活に活気と安定が生まれて来たのです。B社の主な商品としては、抗癌剤を主力に、単価の高い医薬品を扱っておりました。
倉庫作業員として入社したのですが、たまたま欠員が出たことにより、2日目から、品質管理室(略してQC)の検査グループに電撃配転が決まります。これにより、僅か1日で時給UPを勝ち取ります。
配転後は、鬼女上司の元で厳しく指導されました。また、業務内容は多岐に渡り、輸入医薬品のサンプリング資材、原料のサンプリング(無人服着用)、資材検査、リフトによる合格ラベル貼付作業、化学、生物試験室へのサンプル引渡し、注射剤包装前抜き取り検査、各部署との進捗、手順書の改定などです。その義務は社員並以上に渡り、業務内容は、全て教育の後、メールで来たものを自分で予定を立てると言った感じでした。このような、キチッとした内容は、堅苦しくもありますが、いい加減な会社より自分にとって良かったように思います。
業務上、ありとあらゆる場所へ出入りしますので、制服も、品質管理棟、第1製剤棟、第2製剤棟、倉庫棟と多種類あり、ロッカーも下駄箱も複数あります。製剤棟ではヘアーキャップ着用、無菌室へ入る時は、無人服着用と、まさに、着替えをいかに短時間で回数を少なくするかが課題となりました。
当然、これだけの内容、簡単に覚えられる訳がなく、鬼女上司に大人数でいる事務所にて、いきなり、
「岩本さん、朝、私のメール見た?」
と尋ねられ、私は、
「すみません、全部見ていません」
と答えると。
「そんなんだから、仕事が出来ないのよ」
と罵られる。周りの社員達も
「岩本さん、耐えるのだ」
と言われる感じで、シゴかれ耐え成長し、1年を超えた頃、ようやく文句を言われなくなるのです。
そして、2009年になるまでに、契約更新を続け、4年半も勤めておりました。まさに、人生で最も張り合いのある時期であったと言えます。
一方母は、この頃には足元がふらつくようになって来ており、また、若干の痴呆症状も出て来ました。
元々、車も免許を持っていないので、買物や所用があれば、全て、私が、車に乗せて行きました。また、何かと手続きがあっても、学の無い母には出来ず、私が代行してやっておりました。
生活の方は、父親の遺族年金で、豊かではないけど、何とかしていました。
この母の身体の弱って来たのと同時に、性格面も異常をきたしてきました。明るかったのに塞ぎがちになり、晩酌の酒量も増えて、様々な愚痴を毎晩、私が聞くこととなります。同じ話しを何回もです。
特に、自分の妹夫婦の話題が多く、
「若い時に散々世話してやったのに、薄情だ」
と言い、妹夫婦への憎悪を深めて行きました。
その頃、既に痴呆が酷い祖母は、特別養護老人ホームに入り、管理は、全て私と母でやっていました。
なお、二人とも短気で、イライラが募り、殴り合いや、物を投げたり、時折、激しくケンカをするようになって行きました。包丁を母は持ち出し、追っかけて来たこともある位です。
仕事こそ安定しつつあった私ですが、精神的にはボロボロで、心療内科へ通院して、何とか、頑張っていました。
そんな折の2008年の暮れに、祖母が老衰で、97歳で亡くなります。
私と母は駆けつけ、妹夫婦も来ました。祖母は、殆ど貯金もなく、自分の年金だけで入所していたのです。そして、親類間で告別式の段取りなどを相談している時に、母も私も、母の妹の旦那の態度に対してブチ切れました。
母の妹の旦那は、市役所定年後、消防署の上役までなった人ですが、陰気で愛想がない性格でした。
ブチ切れたことに関しては、謝罪に行きましたが、もう寝てるからと言うことで出てきませんでした。
その後、暮れも押し迫った12月30日に告別式を簡易に済まし、年が明け、2009年になります。母も私も、モヤモヤしたものを抱えながら、祖母の手続きに奔走するのです。当時は、亡くなったらすぐに口座が凍結するなんて知識もなかった為、口座からお金を下ろすだけでも煩雑な手続きに苦労していました。
そして、運命の、2009年1月20日を迎えます。
続く〜