「俺のことを分かれ」という押し付けな態度の虚しさと、話を聞いてくれる存在の大切さ | 絵を描くことを通して生きていることの不思議さ、面白さを発見する。

絵を描くことを通して生きていることの不思議さ、面白さを発見する。

インプットとアウトプット。
入力と出力。

受け取ったもの、吐き出すもののバランスを考えてみる。

「お前は間違ってる。洗脳されている。」などと言われて失礼な!と思ったことはないだろうか。

自分の主義や主張に反することを述べる人に対して、軽蔑したり哀れんだりする言動は暴力と言ってもいい。
例えば、右翼、左翼などと派閥があるが、両者は互いを攻撃し合うだけだ。ある種類の思想が、自分にとって当たり前の常識になっている場合、真逆の発言をする人に対してなんで「そんなことも」わからないのか、などと批判したり、論破したところで無意味である。

それが、説得や交渉、ある種類の考え方に関する可能性の示唆に留めておかない限り、相手の面目は傷つき、次の議論や話し合いの時には論破されることを警戒する。ある人は「無難なこと」しか言わなくなり、話し合うことから逃げようとするだろう。「正論ですが」「一般論ですが」「誰か偉い人がそう言っていた」など、自分の発言の責任をどこか上の方に預ける。
あるいは、巧みに論点をずらし、相手の批判をかわすが、もしも相手にアラがあれば鬼の首を取ったように勝ち誇る。「はい、論破〜」

もはや相手を打ち負かすだけのゲームであり、何も建設的な考えは得られない。自分が相手から影響を受けることを恐れ、ひたすら相手の考えを変えさせるか、さもなければ黙らせようとする。甲羅に引っ込んだ亀、殻の閉じたカキの様に。ただしこちらは安全な物陰から矢を射てくるので厄介だ。

ゲームが楽しいならばそれでいいかも知れない。しかし、もうそれにはウンザリ、もう考えたく無いという人もいる。
でも考えてしまう場合、どうしたらいいのだろうか。

まずは、人間は合理的な存在である、という考え方を捨てること、それから、感情で動く存在であることを自覚すべきだ。どんなに立派な理屈を並べられても「面白く無い!」という不満がある限りは反発し続ける。

自分が間違っているということを認めるのは勇気のいることであるし、間違いを認めることを強制されることは耐え難い苦痛だ。不特定多数の前で間違いを指摘することは、多くの人にとって、ある種類の侮辱行為である。
子供の頃から学校で、「正解」を教えられ、テストされ、「間違うことは恥ずかしいことであり間違いを減らしていくことが大人になることだ」という価値観を育ててきたので当然ではある。

しかし、人間は死ぬまで間違いを犯し続ける生き物だ。間違うことをいちいち恥ずかしがっていては生きていけない。そこで、分かれ道ができる。

「自分は間違えていない、自分は正しい」と主張することにこだわる。
「間違えるのは恥ずかしいけど人間だから仕方ない、教えてもらおう」
と開き直るか。

これは生存戦略なのでどちらがいいとも言えない。「頑固で意固地」という見方は、相手を変えさせようとする人間から見た感想だからだ。

このように、人間は感情中心で、嫌なものを避ける生き物だ。そして好きなものを積極的に得ようとする。
ではその、好きなものとはなんだろう。

肯定されること、認められること。
特に君は頭がいいね!知的だね!などと言われると嬉しいはずだ。
認められるということは、社会の一員として認められるということでもある。学歴社会、就職難を経験した人、働く人の関心事の1つに、自分は社会にとって必要な存在であるかどうか、ということがある。社会にとっていらない存在、ノケモノ、仲間ハズレにされてしまうことを恐れる人も多い。
認められるということは、「君は仲間ハズレにされる存在なんかじゃ無いんだ」というお墨付きをいただくほどじゃ無いにしても、自己肯定感のポイントが上昇する。上昇しすぎると調子に乗ってしまうわけだが。

話に戻ろう。
否定されるより肯定されたい、という人間のサガからしても、議論によって相手の考えを変えさせようとというのは無理がある。わざわざ好き好んで自分の考えを変えさせられたい人はよっぽどの賢者か、徳の高い人か、たぶんドM だ。

自分の考えを褒めてもらいたい、認めてもらいたいと思うのが自然だ。しかし相手のことは認めたく無い。なぜなら相手は全面的に間違っているから。人間性がおかしいから。
そう思っていては、バトルにならない方が不思議だ。「あの人たちは話が通じないから仕方ないね」と見切りをつけて同じような考えの人ばかりがいる狭い世界で生きることになる。

認めてもらいたいという気持ちにはそれなりの代償が必要だ。まずは相手に共感すること。それが大前提だ。
どんなにおかしな思想を持った相手でも人間なのだから、何かしら共通点はある。車が好きとか、子供が好きとか、国の将来を心配しているとか、人が死ぬのは悲しいとか。

まずはそういう、人間としての普遍性を持った目的に共通点や、同意点を見つけるべきだ。思想や考え、宗教などは、生きるために必要としているのであり、思想や宗教それ自体のために生きているわけでは無い。
僕らはみんな生きているのである。つまり必然的に共感できることは見つかるはずだ。右翼や左翼にしても、結果的にどうあれ、国の将来を心配する、という共感できることがあると認めるべきである。

そういう観点から、まずは相手の考えを部分的にでも、肯定して認める、共感するということが話をちゃんと聞いてもらうことへの大前提だ。

話せばわかる、という話では無い。話さなければ何もわからないという話だ。かくいう自分は人格者では無いので様々な失敗を繰り返してきた。普通とは少し違う自分のことをうまく人に説明できずモヤモヤを溜め込んで生きてきた口だ。だからこそ得られた教訓として話を進める。

さて、相手をまずは立てる、共感するということが、おだてて木に登らせてから落とす作戦だと思ったあなた、それは違う。

おだてたところで相手は気をよくするか、つけあがるだけで考えを改めたり深めることはない。いくら専門知識を並べ立てて自説に説得力を持たせようとも、本質的に何も解決にならない。
素晴らしい理屈や論理を並べ立てることはただ、「自分の方がものを知っている、より良い教育を受けてきた」というマウンティングに他ならない。下手を打てば、相手の無知につけ込んだ学歴差別となり、当然怒り出す。あなたは社会の中でノケモノに近い方の人間だと、レッテルを貼ることになるからだ。

勘違いしてはいけない。「知ってる方が偉い」のではない。「知らない方が偉い」のだ。知っている側より、知らない側の方が立場は上なのだ。知っている側には知らない側にわかりやすく説明する義務が発生する。もし相手が知らないことに対して説明を怠って、相手を一方的にバカ扱いすれば、まともに話し合うことを放棄したことになる。試合放棄で勝手に勝利宣言。「お前は知らない」という壁を一方的に作ったことになる。「こんなの常識でしょ。なんでわからないの」と。相手が反論しずらくなり話し合いはシラケる。不信感を持たれて二度と話をしてくれなくなるかもしれない。傍聴している第三者に対しても、あなたの人格のみならず、抱いてる思想や考え方にまで悪い印象を抱かれる。
議論する相手にダメージを与えたつもりかもしれないが、本当にダメージを与えたのは、あなたが抱いている主義主張そのものに対してだ。新たな賛同者を得る機会を逃した上に、反発した感情を抱く人を増やしたのだから。そのような悪い議論が、国規模で、世界規模で起こればどうなるか想像はつく。
だからこそ、相手を頭から否定しない姿勢、わからない、知らないということに対して恥をかかせずにわかりやすく説明する、ということはとても重要だ。人はわからないものを警戒したり嫌悪感を抱くが、よく知ったものは仲間ハズレではなく仲間なのである。

そのような心得を持たないで議論すれば、「正直、思想とか考え方とかどちらでも関係ない」という中立の第三者に対して、自分の考えていることは、「胡散臭い、何かとても嫌なものである」と宣伝しているようなものだ。信じているものがいいものだとすれば、社会にとってマイナスである。

人を孤立させようとする人もまた、孤立していく。「話が通じない人」を量産して壁を作った結果、自分の方が社会から弾かれてしまう。

本当にわかってほしいのならば、相手の話を否定せずにまずはよく聞く。そして共感できる部分をより多く探し、認められる部分は認めるよう。互いに共通点を見つけたら、そこを軸に話を広げよう。相手が知らない言葉をひけらかさず、「常識」をわかりやすく説明することを怠らない。人間性を否定したり、むやみに優位に立とうとしない。
言い負かされてしまったとしても恥じる必要などない。知識を取り入れ、人にわかりやすく説明する努力が足りなかっただけである。改善点が見つかったということだ。
また、自分を言い負かしたつもりでいる相手にとっては彼自身が賢いことを証明できたので心に余裕が生まれている。新しい考えを取り入れるチャンスが新たに生まれた、ということだ。

とにかく、話せば(必ず)わかるわけでは無いが、話さなければ何もわからない。グーで殴るしかなくなる。(自戒を込めて)

長文読んでいただきありがとうございました。ご意見、ご感想お待ちしています。