演技に術ってあるのだろうか。
こんな話になった。
数10年会っていなかった友人だが、10年以上前に、役者をやめていた。
「今は、人気のラーメン屋・・・じゃない中華風麺どころってところかな」
どういう意味かを聞くと、ラーメン屋というと抵抗があるのだそうだ。
「おれは役者していてお客さんとの接点が、インチキ臭くて仕方なかった」
という。
このような話は、かつての彼には考えられない。
演劇論だの演技論という話題からはいつも逃げていた男だからだ。
「舞台から押し付けているというのなか、お客さんが求めているものが、
ソバなのに蕎麦粉入りうどんを食わせて、これはこれで美味いだろう?」
・・・するとお客さんは、「なるほど、それもアリ」と誤魔化しに合いながら、
「誰々さんがよかった」「装置が凄かった」「劇場がよかった」ことを含めて
拍手を送って帰路に着くのだという。
肯けなくもないが、彼の「麺の世界は違う」という話を延々と聞かされた。
途中から私がまともに聞いていないのを感じ取ったのだろう、
「お前は今も夢を追い続けていて偉いなァ」と、手前話を切り替えてきた。
「夢かァ・・・、昔はそうだったが、今は現実を追い続けているんだよ」
「へぇ、じゃぁ、おれと変わらねえじゃないか」
「う~ん、まぁな」
こんな会話の後、
「最近、いい役者いるか?」
と聞く。
「いるよ」
「誰?」
「うちの劇団の芝居を観てくれ」
「へェ、まさか、お前、自分って言いたいのか?」
「いや違うよ。上手いかどうかといえば、そこは“うん”とは言えないかも」
しかし、入団1年で難しい主役をはれるまでに成長した男が2人はいる。
謂わば、「術」であり体系だった方法であり、
豊かな感性と学びによって成り立つものなのだ。
話術は、日々の生活の中に生きてあり、学術は学びの中に生きてある。
それをまとめて技術とは言わない。
「ま、おれの仕事は、そういう難しいことじゃないんだ。初めて食べる人も、
常連のお客さんも、そこに座って箸を使ってスルスルッってすすった瞬間から
最後のスープを飲み終わった時までが序曲なんだ。飲み終わったその瞬間、
次もやっぱりここの来ようと決断させることなんだよ。ここにドラマがあるんだ」
「ほぅ、深いねぇ」
正直な気持ちだ。これには一種、感動を覚えた。
「ここまで行けば、“ありがとうございます”も“またどうぞ”もいらないのだという。
「にっこり笑顔でお互いに肯き合えるんだよ。いい芝居を観終わったときに、
劇場入り口に歩きながら心の中で唸ることがあるだろう“う~ん”ってさ」
「あるなァ」
「おれには、お前が出ていた“星の牧場”がそれだな。宇野(重吉)さんが、
ほら、ちょっと頭の弱い何とかいう役を演じていた・・・」
「へぇ・・・そうか」
「こんどお前の芝居観るよ」
「来てくれ」
「唸らせてくれよ。唸りたいんだよ、おれ。おれの麺を食べに来てくれ」
「よし。唸りに行くか」
「お~ぅ」
ソバを食べに来た客にソバを食べさせたという
「う~ん、お前を唸らせる芝居なぁ・・・」
「深~い芝居だよ」
そこで、2人とも大笑いになって話が終わった。
別れた後、昔は何を考えて芝居をしているかわからない男だったが、
奴はラーメン屋・・・じゃない、麺屋になってはじめて役者魂に触れた・・・
そんな思いがした。・・・それとも以前から、そういう男だったのかもしれない。
演劇と演技を再考させられる話だった。









