面白おかしく芝居が出来ればそれでいい。
こんな思いで芝居をしているのなら、
今すぐ芝居なんかやめろ。
作者に失礼だ。
これは、
多喜二が三吾にたいしていうセリフをもじったものだ。
稽古で出来ないことを本番で出来るわけがない。
演劇をつくりあげることは、
作者だけではない、
演じる役の人物、
その生い立ち、
彼や彼女に関わった多くの人々、
その状況や環境、その全てに責任を持たなければならない。
「この役を、おれ以外のいい役者が演じたら・・・」
素晴らしい人物像を創造するにちがいない。
こう思えば、
命を賭して挑みかかろうとする・・・
これが役者だ。
セリフではない、思いを生かす言葉ではないのか。
間を空ければいいとかたたみ掛けるとか、
くだらない考えでセリフを考えるのは役者の仕事ではない。
息遣いから、実際の目線から、
心の目線から・・・すべてに喰らいついて初めて「間」に近づける。
その前と・・・後の接着剤が「間」なのだ。
「あいだ」と書く。
「愛だ」なのだ!
演出も演者にどう接近するかを常に考えている。
「愛だ」・・・愛がなければそんなことを考えるものか。
接近の度合いを、ぼくは「間」といっているのだ。
役者よ、
もっと、もっと役の人物に接近しよう。
そこに生まれる「間」こそ、
「愛だ」からだ。