人をほんとうに愛したい・・・
今年9月に公演する三浦綾子作「母」について、
様々な角度から考えてみたいという意味で、
「母」として20回のキャンペーンと
「母」その声を聴くとして、10回目の記事を掲載してきました。
ここで、劇団員と、この作品にかかわる全ての人に
当然といえば当然のことですが、少なくても一度は
思いを巡らせて欲しい内容をブログを通して記してみたい。
この作品は、一人の女性を描いた作品ですが、
この作品を通して、ひと一人生きるには、
何万、何十万・・・いや、何百万人という人々との
つながりの中に、その人生は営まれているのだということを
気づかされます。
小林セキさんは、既に亡くなって久しい。
しかしそれは、「母」という小説によって、
多くの人生にかかわりを持ち、演劇として舞台にのせることで、
更に多くの人々の生き方にもかかわっていきます。
演劇作品ひとつ創ることから生まれる私たちに課せられる
責任も劇場という空間内に止まるものではないのです。
「母」に登場する人たちは、
明治、大正、昭和の時代を生きた人たちです。
たとえ実在しなかった、作中に生まれた役の人物も、
あるいは演出によって登場させられる人物も、
すべては命を主張している存在であることを忘れてはなりません。
小樽市立文学記念館 小林多喜二コーナー
2002年「母」初演に向けての取材で三園ゆう子
母セキのことばから
母セキのことばから
じっと息をひそめて・・・その息を吹く返し、
心臓に鼓動をよみがえらせ、頬に血が通い、
喜怒哀楽の感情までが豊かによみがえる、
その日を待ちわびているのです。
このような世界を劇界といいます。
その世界に魅せられた多くに人々がいました。
演劇を愛する上での条件・・・それは、
人をほんとうに愛せないようでは成り立たない。
劇界には、このような人がいました。
ぼくはこの人を挙げたい。
宇野重吉さんです。
「この人(役の人物)はね、ここでは、
そんな声でモノ言わないんだよ。もっと、こう・・・」
ドレミファソ・・・の「ソ」の音だという。
「音だけでもダメなんだよ」
呼吸が違うという。
大きく吸った息を吐き出しながら、
「その終わりのところで、搾り出す声だよ」
俳優は懸命にトライします。
「汚ェ声だなァ。そんなんじゃないよ」
民藝に在籍中、
こんな稽古が繰り返されていたのを思い出します。
その声音を聞き漏らすまい・・・
一挙手一投足を見逃すまい・・・
耳をそばだて、
目を皿のようにしていた時期がありました。
ひとをほんとうに愛した演劇人として、
そして演劇をほんとうに愛した人として、
ぼくは宇野重吉さんを挙げたいと思います。
民藝を退団して後、
「俳優は、死ぬまで勉強だよ。それだけは忘れずにな」
NHKのスタジオ前の化粧室でいわれたひと言を、
今でも忘れない。
いい演劇作品を創る。
そのためには、
人をほんとうに愛せることしかないのかもしれません。
そして、絶やさない勉強と・・・