先ほど神田まで自転車で行ってきた。
途中ファーストフードに入りコーヒーを飲む。
週日の昼過ぎで食後の息抜きに立ち寄り
仲間同士お茶をしているビジネスマンや
OLもいたが、中に子供づれの母親らしき
女性もいた。
「らしき」とは失礼かもしれないが、
そうとしか言いようがなかった。
4~5歳の子どもは、所在なさそうにポテトを
つまみ、母親はわき目も振らずメール打ち。
子どもは退屈して母親に寄りかかる。
「・・・・!」
母親は、その方を見もせず無言で押し返す。
子どもは下唇を突き出して不満を示し、
またポテトを口に入れる。
が、明らかに食欲は失せている。
何回か、それの繰り返しの後、
子どもとはいえ堪忍袋の緒も切れようというもの。
母親のコートの袖を思い切り引っ張った。
パチンッ!
母親は子どもの頭を平手で叩いた。
顔を向けもせずに・・・
「おい母親ッ、そりゃあないよ!」
言いたくなるが、堪えた。
耐えている子どもほどには我慢が出来ない。
半分近くしか飲んでいなかったコーヒーだが、
気分が萎えて、手が行かない。
いや~な思いを抱いたまま店を出て・・・
神保町から大手町へ抜けた。
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終戦後、ぼくは母と妹の3人暮らしだった。
小さな家での倹しい暮らしだった。
この頃はみな貧しかった。
猫の額ほどのりんご畑と、自給自足の作物を
家の周りの畑から採って来ては食卓に
並べる・・・そんな食事だった。
早めに床に入り、
何十回聞いたか知れない母親の語る話に
耳を傾ける。・・・いつの間にか、話が途切れ
母親の寝息に変わる・・・「ねぇ、お母さん!」
妹の催促で「はいはい」との返事に続いて
「あれっ、何処まで話した?」
幼い頃の、こんな生活を思い出す。
ある夜のこと、寝入ったぼく等は突然起こされた。
「へい、ママさん、ここ開けなさい」
「開けないと壊すよ」
木戸をドンドン叩き続ける。
数人の米兵の声がする。
明らかに酔っている声だ。
そして時折下卑た笑い声と甲高い口笛が響く。
「開けろ!」
「ママさん!」
母はぼくと妹を抱きしめ、
「いいか、入ってきたらお前たちは逃げて行って
“助けて”って大声で叫べ」
そういうと、囲炉裏にくべる薪を握りしめた。
ぼくは、その時の母の腕に浮き上がった
血管を今でも記憶している。
「もうダメだ」と思ったのだろう、母は、
「いいかッ!」と言うなり入り口に突進していった。
・・・と、その時叩く音が止んだ。
ぼくも妹も息を止めた。
米兵たちは諦めたのだろう。
笑い声と奇声が遠のいていった。
「お母さん!」
母に近寄ると母は泣いていた。
「よかった。何もなくてよかった」
母の指差した入り口の戸を見ると、
閂代わりに差し込んだ釘が半分抜けかかり、
あとひと叩きで落ちそうになっていた。
翌日、隣り村で一軒の家が荒らされ、
娘が数人の米兵に乱暴されたという話を聞いた。
ファーストフードにいた母親にむかつき、
ペダルを踏みながら虎ノ門に抜けながら
こんなことを思い返していた。
気丈に危険に立ち向かっていた母は、
既に世を去っていない。