※タイトル変更
私たちは日々、様々なものを学びながら生きている。
そして、それを自らの「生き方」にし、
自らの「在り方」としてここにある。
わたしの在り方は、演劇人としての生き方を
考え、世界を見つめ現在を見つめ自分の
成しうるものを考えることだと思っている。
数年前、私たちが上演した演劇を観てくれた
中学生たちから衝撃的な感想文が寄せられた。
前回からその一部をブログに掲載している。
私は何をしにこの世に生まれてきたのか・・・
このことを、改めて考えざるを得なかった。
2011年を迎えるにあたり、
それを今一度確かめようと、このブログに掲載し、
読み返したいと思いたちました。
■きょうは「母」という演劇を観て学ぶことがありました。
まず六人の子どもをもつ母セキの心の偉大さと優しさに
私は驚きました。
自分たちが切り盛りするパン屋でパンや餅を盗まれる。
「よほどお腹をすかしていた人かもしれないよ」と、
そんな一言で子どもたちをなだめる母。
自分たちも裕福ではないけれど、
この時代になければならない
一つの優しさだと思いました。
きっとその場に私がいたら、
セキのように大きな心で罪を犯した人を
許せなかっただろうと思います。
そんな母の強さや優しさ、それに貧しさの中の、
いっときの幸せ、何もかも演劇を通して学びました。
母が笑ってくれるから周りの空気も暖かく、
母が弱気を見せずに頑張ってくれるから、
みんな一緒に喜びを感じあえるのだろうと思いました。
この演劇を観て、改めて母の本当の姿を
見たように思いました。
自分のことよりも子どものことを先に考えてくれて、
いつでも見守ってくれる母の偉大な姿に、
とても感動しました。
一人一人がここまで育ってきたのは、
母の愛や温もりがあったからです。
これから大人になってからも変わりません。
演劇を観て気付いたことや学んだこと、
感動の気持ちを忘れずに、
これからの私が、強い心で母を支えていきたいです。
■「母」の上演が終わったとき、
正直言うと私は理解できなかったことの方が多かった。
しかし、唯一わかったことがある。
それは今の世には少なくなってしまった暖かく、
たくましく、そして信念で生きる「人の心」の
素晴らしさだった。
母のセキは、
母としても一人の人間としても、
しっかりとした芯を持っている。
世の動きに左右されることなく 生きる母によって
育てられた子どもたちは、
またその生き方を受け継いでいった。
「たとえ法に触れて犯罪者の汚名をきせられ
処刑されようとも、自分が進んだ道は絶対に譲らず、
このような多喜二を育てたのは、
他の誰でもない母の生き方そのものであったと私は思う。
また、その多喜二が銀行員になった日には、
小林家ではお祝いに、
めったに口に出来ない「ぼた餅」を食べた。
弟の三吾が、「ぼた餅って人を幸せにする食べ物だね」
という。
それを聞いた末っ子のユキは、
「だったら、日本中の人に食べさせてあげたいね」と、
素直な気持ちを語った。その言葉に私はドキリとした。
それが実現するかは別にして
私は日本中の人にしてあげたいなどと
思ったことがないからだ。
今の日本は豊かで、
自分に出来ることは誰にでも出来るはずだと
信じて疑わなかったからだ。
技術は日々進歩し続けている。
しかし、今の日本人に本当に必要なのは
物の豊かさや生活の便利さではなく、
心の豊かさであり、自分らしく生きることだと思う。
人間の本来持っている素晴らしい心を犠牲にし、
素晴らしさすら忘れていないだろうか。