小学校時代の同級生からだった。

ふるさとの温泉で行なわれた同窓会に
行けなかったので、
蒐集した情報を知らせようという親切心かららしい。
「○○さん、事故で死んだって」
○○さんとは、アメリカ人と結婚して
ボルチモア近辺に住んでいたらしい。

小学時代、年に一度の記念写真の撮影の時だ。
ぼくの真後ろに並んだ彼女が、
「動かないで」と言って、
よじれた襟を直してくれたことがあった。
直してもらいながら、
心臓が破裂しそうだったのを覚えている。
小学二年生の恋だったのかもしれない。
クラス一の美人で、裕福な家のお嬢さんだった。
貧乏人のぼくには眩しい存在だった。

あの時、首筋に触れてきた彼女の指の感触は、
六十年以上の年月を経た今でも残っていたのだ。
会いたいとも思った。
そしてあの時のお礼をいいたいとも思った。
勿論彼女は覚えているはずはないだろう・・・

・・・だが、その彼女は亡くなった。
「そうか・・・可哀想にな」
何気なく、そんな言葉が出た。
会いたい人という思い出だけを残して、
この世から旅立ったのだ。
そして不思議なことに、その電話と共に、
あの首筋に感じたはずの指の感触が消えたのだ。
ホッソリした指先の感触・・・
それが蘇ってこない。
・・・感じられなくなっているではないか。
誰もが「限られた命」を
何処かのポケットに入れて日々を送っている。

どれほど元気で颯爽としていても、
明日死なないとは言い切れない。
一週後に事故に遭わないとも限らない。
ところが今日も元気でいたこともあり、
無意識に永遠の命を持っていると錯覚してはいないか。
誰でも限られた命しか持っていない。
それは自分だけではない。
奥さんがいれば、人生を分かち合っている彼女も、
子どもは、自分が産んだ限られた命なのだ。
いつまでのものか分からないが、
限られていることは確実な命なのだ。

・・・それを思えば、
今をどう生きるか・・・
これほど大切な課題は、
誰にとってもないはず。

アメリカで幸せだったのだろうと思うことにした。
ぼくも色々幸せを感じながら今を生きている。
彼女からもらった指先の感触を六十年もの間、
大切にして生きてきたぼくに再会す事もなく
去ってしまった彼女に「可哀想なことをした」
と思えるのも、
彼女より数日長生きしているからに違いない。