沖縄での米軍の婦女暴行や暴力、酒酔い運転等々の報道が再燃している。
このように報道されない事件は数えきれないほどあるに違いないと思う。
まだ小学生時代の僕にも怖い想い出がある。
山形の天童のはずれ、久野本(当時天童原といわれていた)に住んでいた頃だ。
物資の足りない当時、京都や埼玉に単身赴任で働いていた父が持ち帰った
10本ほどのコウモリ傘と交換に、家を建てさせてくれという話が持ち込まれ、
小屋をレベルアップしたような家を持てたのであった。
これまで母の実家に同居させてもらっていて、叔母らに遠慮しながらの生活だったので、
どんな家だろうと、家族水入らずで過ごせる喜びはかけがえのないものだった。
・・・といっても安普請の家、「コウモリ傘よりはずっといいさ」と母がいう、
その通りのものだが、土間を上ると囲炉裏があり、奥には押入れもある。
父は、そのまま埼玉に住んでいたので、妹を入れての三人には不足はなかった。
戦後、3~4年後のことである。
時折ジープに乗った米軍(当時は「アメリカ」とだけ呼んでいた)が、
近くの道路を突っ走って通る程度だったが、悪いうわさを耳にしていた。
しかし子どもの耳には入れたくはないのだろう、
こそこそと額を寄せ合っての大人の話だった。
しかし遊びは少ない、話題も少ない時代である。
子どもの耳に伝わらないわけはない。
「母ちゃん家さ帰ったら、姉ちゃん裸にさっでアメリカに抱がさっでだんだど」
「夜中、何人ものアメリカが襲っで来で、母ちゃんと娘とやったんだど」
具体的に何をされたかは理解できなかったが、卑猥なことをされたことだけは分かった。
母は、寝る前に鍵を忘れるな…と、必ず確かめることにしたが、
鍵と言いても南京錠などがあるわけではない、表と裏の戸に錐で穴を通し、
太目の釘を差し込んで止める程度の鍵(?)であった。
ある夜、戸を叩く音で目を醒ますと、すでに母と妹は目覚めていて、
「声を出すな」と囁くようにいう。
また戸を叩いては「すみません」という声が聞こえてくる。
その状態が数分続いたが、急に荒々しい叩き方に変った。
ことばも「開けなさい」に変り、数人の怒鳴り声も聞こえる。
「アメリカの酔っ払いだ」
母は、僕と妹を抱き寄せ、「声、出すな」と囁いた。
そのうち、戸が壊れやしないかと思えるほどドンドン叩かれた。
「・・・・」
今夜、鍵をかける番は僕だった。
自分では、きついほど釘を差し込んだのを覚えている。
「開けられても離れないようにしてろ」
母は、一層力を入れて僕等を抱きしめた。
痛いほどだった母の力をいまでも覚えている。
「・・・・?」
音がしなくなった。
僕等は息を殺したまま5分、10分と固まったまま時を過ごした。
「見て来る」
僕は、入り口に歩いて行ってみた。
真っ暗なので、抜き足差し足で入り口に近づき外をうかがった。
外に人の気配はなくなっていた。
戸の隙間から、かすかに漏れる月明かりを感じられた。
母の手招きする姿が見えた。
「もう少しジッとしていよう」
と母は言った。
2~30分は動かずに様子をさぐった。
「大丈夫そうだね」
母は、ランプに火をつけた。
(電気は通っていたが、停電用にランプは欠かせない時代である)
おそるおそる入り口に近づいてみた。
「・・・・!」
叩かれた戸から、釘は今にも外れそうになっていた。
あと3~4度叩かれたら、持たなかったかもしれない。
「よかったねえ」
妹は初めて口を利いた。
開けられていたら、小学生になったばかりの妹も無事だった保証はなかった。
一本の釘に助けられたのである。
沖縄や基地周辺で起こる事件の報道に接するたびに、この想い出が蘇る。
僕等の住んでいたちっぽけな家が、沖縄県に思えてくるのだ。
しかし沖縄にとっての、一本の釘って何だろうと思う。
沖縄には、それすらないのではなかろうか。
基地はいらないのではないだろうか。
このように報道されない事件は数えきれないほどあるに違いないと思う。
まだ小学生時代の僕にも怖い想い出がある。
山形の天童のはずれ、久野本(当時天童原といわれていた)に住んでいた頃だ。
物資の足りない当時、京都や埼玉に単身赴任で働いていた父が持ち帰った
10本ほどのコウモリ傘と交換に、家を建てさせてくれという話が持ち込まれ、
小屋をレベルアップしたような家を持てたのであった。
これまで母の実家に同居させてもらっていて、叔母らに遠慮しながらの生活だったので、
どんな家だろうと、家族水入らずで過ごせる喜びはかけがえのないものだった。
・・・といっても安普請の家、「コウモリ傘よりはずっといいさ」と母がいう、
その通りのものだが、土間を上ると囲炉裏があり、奥には押入れもある。
父は、そのまま埼玉に住んでいたので、妹を入れての三人には不足はなかった。
戦後、3~4年後のことである。
時折ジープに乗った米軍(当時は「アメリカ」とだけ呼んでいた)が、
近くの道路を突っ走って通る程度だったが、悪いうわさを耳にしていた。
しかし子どもの耳には入れたくはないのだろう、
こそこそと額を寄せ合っての大人の話だった。
しかし遊びは少ない、話題も少ない時代である。
子どもの耳に伝わらないわけはない。
「母ちゃん家さ帰ったら、姉ちゃん裸にさっでアメリカに抱がさっでだんだど」
「夜中、何人ものアメリカが襲っで来で、母ちゃんと娘とやったんだど」
具体的に何をされたかは理解できなかったが、卑猥なことをされたことだけは分かった。
母は、寝る前に鍵を忘れるな…と、必ず確かめることにしたが、
鍵と言いても南京錠などがあるわけではない、表と裏の戸に錐で穴を通し、
太目の釘を差し込んで止める程度の鍵(?)であった。
ある夜、戸を叩く音で目を醒ますと、すでに母と妹は目覚めていて、
「声を出すな」と囁くようにいう。
また戸を叩いては「すみません」という声が聞こえてくる。
その状態が数分続いたが、急に荒々しい叩き方に変った。
ことばも「開けなさい」に変り、数人の怒鳴り声も聞こえる。
「アメリカの酔っ払いだ」
母は、僕と妹を抱き寄せ、「声、出すな」と囁いた。
そのうち、戸が壊れやしないかと思えるほどドンドン叩かれた。
「・・・・」
今夜、鍵をかける番は僕だった。
自分では、きついほど釘を差し込んだのを覚えている。
「開けられても離れないようにしてろ」
母は、一層力を入れて僕等を抱きしめた。
痛いほどだった母の力をいまでも覚えている。
「・・・・?」
音がしなくなった。
僕等は息を殺したまま5分、10分と固まったまま時を過ごした。
「見て来る」
僕は、入り口に歩いて行ってみた。
真っ暗なので、抜き足差し足で入り口に近づき外をうかがった。
外に人の気配はなくなっていた。
戸の隙間から、かすかに漏れる月明かりを感じられた。
母の手招きする姿が見えた。
「もう少しジッとしていよう」
と母は言った。
2~30分は動かずに様子をさぐった。
「大丈夫そうだね」
母は、ランプに火をつけた。
(電気は通っていたが、停電用にランプは欠かせない時代である)
おそるおそる入り口に近づいてみた。
「・・・・!」
叩かれた戸から、釘は今にも外れそうになっていた。
あと3~4度叩かれたら、持たなかったかもしれない。
「よかったねえ」
妹は初めて口を利いた。
開けられていたら、小学生になったばかりの妹も無事だった保証はなかった。
一本の釘に助けられたのである。
沖縄や基地周辺で起こる事件の報道に接するたびに、この想い出が蘇る。
僕等の住んでいたちっぽけな家が、沖縄県に思えてくるのだ。
しかし沖縄にとっての、一本の釘って何だろうと思う。
沖縄には、それすらないのではなかろうか。
基地はいらないのではないだろうか。