「どうして朗読がきらいなんですか?」
質問を受けた…というより、非難じみた言い方で聞かれたと言った方が正確かもしれない。
「吉永(小百合)さんや、高田(敏江)さんなど多くのみなさんが朗読をしていますね」
はい。
「じゃあ、それを否定するんですか?」
どうしてそのような話になるんですか?
僕は、いろいろな人が朗読をしているのを否定するなんて一度も言ったことがありません。
ただ嫌いなだけです。
本を読んで聞かせて金をとるなんてしたくないだけです。
「何故ですか?」
何故でもいいじゃないですか、嫌いなんですよ。
「朗読教室を開いて、授業料をとっている人もいます」
実は我輩も、某カルチャーセンターで「朗読教室」の講師をしたことがある。
まあ、それはあってもいいんじゃないですか?
お母さんが子ども達に本を読んで聞かせる・・・それを上手に読みたい。
それの指導はあっていいと思いますよ。
こんな会話を交わしたが、
何故、金を取って朗読を聞かせる(見せる)必要はない理由は話さなかった。
緒ッから非難してきた相手に懇切丁寧に説明するのが馬鹿馬鹿しいと思ったからだ。
最近は、同じ劇団の人からも、
「そういった…捨て鉢な言い方が多くなったわね」
と、呆れたような顔をされては、「いけない」と思うのだが、
中々直らない。
些かの反省を込めて理由を書けば、
朗読とは、本を前にして読むことが前提になる表現である。
第一に、
読み手は活字を通して読む内容を把握する。
そしてそれを読み伝えるのが朗読である。
表現の一つだが、
演劇表現とは似て非なるものだと思う。
演劇の稽古では、
読み合わせの状態である。
活字は単なることばを形成する暗号である。
読み合わせの最初は、みな活字を読む。
それがことばを言うまでに高めるのに何日とかかる。
そのときは、本には活字はない。
生活の中で交わされることばがある。
セリフ以外の文章は、
表現の中に溶け込んでくる。
それは、非言語表現となって演技という表現になる。
言語で表現できる範囲は極く少ないのだ。
さらに、中に込められた情景を狭い範囲に閉じ込めてしまうこともある。
道具も動きも入れずに読み聞かせるものだから、
想像力を育む…などという人もいるが、
別に育んでもらわなくてもいい。
これが凡その考えだが、
そんな小難しいことは、何処か別のブログに書けよ・・・・
というご意見も尤もなこと。
これからは…やはり、ちゃんと話し合うことを心がけようかな・・・・