続「千と千尋の神隠し」より

 

イーハトーボ通信第四号 春と修羅

 修学旅行で行く雫石スキー場のすぐ近くに、小岩井農場という有名な観光名所がある。宮沢賢治は農学校の教師になって一ヶ月後(1922年1月6日)、初めてそこを訪れた。それから四ヶ月後の5月にもやってきている。詩集「春と修羅」に出てくる長編「小岩井農場」の舞台である。1891年創業の近代的な総合農場として当時の最先端をいく充実した施設を誇っていたため、農学校教師の賢治としても興味深かったのだろう。見学の成果は早速、授業に生かされただろうが、賢治の目的はそれだけにとどまらない。

 詩集「春と修羅」は小岩井農場来訪の年から書き始められた。彼の生前唯一の刊行詩集(1924年4月自費出版)である。試作の材料探しという狙いもあったのである。ただし賢治は自分の作品を詩とは考えなかった。

 詩集の序にこうある。

 

 わたくしという現象は

 仮定された有機交流電灯の

 ひとつの青い照明です

 (あらゆる透明な幽霊の複合体)

 風景やみんなといっしょに

 せわしくせわしく明滅しながら

 いかにもたしかにともりつづける

 因果交流電灯の

 ひとつの青い照明です

 (ひかりはたもち その電灯は失われ)

 これらは二十二箇月の

 過去とかんずる方角から

 紙と鉱質インクをつらね

 (すべてわたくしと明滅し

  みんなが同時に感ずるもの)

 ここまでたもちつづけられた

 かげとひかりのひとくさりづつ

 そのとおりの心象スケッチです

 

 彼は詩集発行の時にも友人にこう書き送っている。「・・・これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、・・・機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません」

 したがって賢治の詩の作法は、机の前で言葉をひねりだすという、普通の形をとらない。常に鉛筆とメモ帳を携帯し、いつでもどこでも主観の働くままに感じたことを猛烈なスピードで言葉にしていく(もちろん語句の修正、補足などの推敲は後日、しつこいくらいに繰り返された)。初めて賢治が小岩井農場を訪れた時も、その心象スケッチが詩集の最初におかれた「屈折率」となって残されている。二度目はずばり「小岩井農場」という題でかなりの長編となっている。

 まずは詩集の題名ともなっている「春と修羅」の一部を紹介してみよう。

 

春と修羅

 心象のはいいろはがねから

 あけびのつるはくもにからまり

 のばらのやぶや腐植の湿地

 いちめんのいちめんのてんごく模様※

 (正午の管楽よりもしげく

  琥珀のかけらがそそぐとき)

 いかりのにがさまた青さ

 四月の気層のひかりの底を

 唾し はぎしりゆききする

 おれはひとりの修羅なのだ

 (風景はなみだにゆすれ)

                       ※媚びへつらうさま

   以下略

 

 普段のあの穏やかな賢治とは思えないほどの激しい表現。修羅とは仏教用語で嫉妬や猜疑の心が強く、争いを好む世界を指している。賢治もまた修羅の住人としての、悪鬼にも似たもう一人の自分を自身の心の中に見出したのだろう。自分の心のじめじめした暗さとは対照的に外界はまばゆいほどの明るい春の景色である。その外界の明るさに賢治の心が次第に感応し、詩の後半では外界の風景に賢治の身体が共鳴しだしたかのような表現となっている。

 

 あたらしくそらに息つけば

 ほの白く肺はちぢまり

 (このからだそらのみじんにちらばれ)

 いちょうのこずえまたひかり

 Zypressen(ツィプレッセン)※ いよいよ黒く

 雲の火ばなは降りそそぐ

                   ※ヒノキの学名

 

 この終わり方は「小岩井農場」の終わり方とよく似ている。

 

 もうけっしてさびしくはない

 なんべんさびしくはないと云ったとこで

 またさびしくなるのはきまっている

 けれどもここはこれでいいのだ

 すべてさびしさとかなしさを焚いて

 ひとは透明な軌道をすすむ

 ラリックス※ ラリックス いよいよ青く    ※カラマツの学名

 雲はますます縮れてひかり

 かっきりみちは東へまがる

 二つの詩とも前半では、賢治の内面が、理想に燃える求道者としての側面と、陰鬱な情念のくすぶる俗人としての側面とに分裂しかかって苦しみながらも、後半で自然の美しさに体が浄化され、寂しさに耐えながらも求道者として生きていく決意を示すような形で終わっている。

 では賢治の理想とは何か?

 それは晩年の最も有名な詩に、無残な挫折感とともに吐露された。

 

 雨にもまけず

 風にもまけず

 雪にも夏の暑さにもまけぬ

 丈夫なからだをもち

 慾はなく

 決して怒らず

 いつもしずかにわらっている

 一日に玄米四合と

 味噌と少しの野菜をたべ

 あらゆることを

 じぶんをかんじょうに入れずに

 よくみききしわかり

 そしてわすれず

 野原の松の林の蔭の

 小さな萱ぶきの小屋にいて

 東に病気のこどもあれば

 行って看病してやり

 西につかれた母あれば

 行ってその稲の束を負い

 南に死にそうな人あれば

 行ってこわがらなくてもいいといい

 北にけんかやそしょうがあれば

 つまらないからやめろといい

 ひでりのときはなみだをながし

 さむさのなつはおろおろあるき

 みんなにでくのぼーとよばれ

 ほめられもせず

 くにもされず

 そういうものに

 わたしはなりたい

 

 賢治の晩年を思う時、この詩はあまりにも残酷に響いてくるのだが…なにはともあれ理想に燃えていた彼の心を満足させるほどには彼の体は丈夫ではなかった。あまりにも自分の体を酷使し過ぎたのである。しかも食事には無頓着で、トマトやジャガイモ一つで済ましてしまうような粗食を平然と続けていたのだからたまらない。

 どんなに自然の美しさが賢治の心を慰めようと、体の方はあっという間に病に蝕まれていった。「じぶんをかんじょうに入れずに」といってもほどがある。さらに「このからだそらのみじんにちらばれ」とか「かっきりみちは東にまがる」とか、妙に淡白で思い切りが良かった。そして安逸を極端に嫌う生来の真面目さ。

 悲劇は早晩、彼に訪れるだろうが、それはまたの機会に。

 

イーハトーボ通信第五号 童話とファンタジー

 なによりも童話作家として知られる賢治であるが、その作品の多くは絵本となったものを除くと子供にとってやや難し過ぎるように思える。賢治作品の場合、わかりやすさを優先した「童話」というよりも、思春期から大人までを対象とした、結構、高度で上質の「ファンタジー」と捉えたほうが誤解されなくて済みそうだ。

 なまじ「童話」と分類されてしまうから青年期の人は馬鹿にして読もうとせず、また子供が読んでも、方言やら隠喩やらが難しくてたちまち敬遠されてしまったりする…折角の魅力あふれる賢治ワールドがそんなことで入り口から閉ざされてしまったとしたらあまりにももったいない。ぜひ、少しでも多くの人に賢治作品の魅力を知っていただきたいと切に願うものである。

 では賢治のファンタジーにはどんな魅力があるのだろう。賢治は生真面目な一方でかなりユーモアのある人だったようである。実際、「注文の多い料理店」や「どんぐりと山猫」などには大人までが喜びそうな、気の利いた、それでいてどこかとぼけたような不思議なユーモアが満ちている。

 

 おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。

  かねた一郎さま、九月十九日

  あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこうです。

  あした、めんどなさいばんしますから、おいでん

  なさい。とびどぐもたないでくなさい。

                      山ねこ 拝

 この「どんぐりと山猫」の書き出しなぞは実に巧妙である。主人公の一郎に届いたハガキの、この珍妙な文面が、たちまち読者をおかしな世界に連れ出してくれる、あたかも案内状としての役割を果たしている。小学生の一郎に「とびどぐ」など持てるはずもないのに「もたないでくなさい」と書いてくる山猫の姿を想像しただけで、妙におかしくなってしまうのだ。

 「とびどぐ」を持ってきてしまった大人が森でどうなってしまうかをユーモアたっぷりに描いたのが「注文の多い料理店」である。都会から来た二人の紳士づらの猟師が森の中で迷い、すっかり腹をすかして「山猫軒」という料理屋に入ってみたものの、まんまと山猫にだまされ、逆にあやうく食べられそうになる。そこにいたる過程が実に滑稽、かつ痛快なのである。

 しかし同じ「とびどぐ」を持った大人でも、熊捕名人の小十郎なら話はちがってくる。

 

 …すると森までががあっと叫んで熊はどたっと倒れ、赤黒い血をどくどく吐き、鼻をくんくん鳴らして死んでしまうのだ。小十郎は鉄砲を木に立てかけて、注意深くそばへ寄って来て、斯う言うのだった。

 「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事をしてえんだが畑はなし、木はお上のものにきまったし、里に出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生まれたが因果なら、おれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生まれなよ」 

 

 この「なめこと山の熊」という作品は、ユーモアに満ちた「注文の多い料理店」とは対極に位置する作品で、重々しく哀切なトーンに終始している。遊び半分で動物を撃ち殺している都会の紳士と違い、猟師を生活の糧とする山育ちの熊捕は仕留めた獲物にいちいち詫びを入れる。

 他の命を奪って生活せざるをえない人間の業が、真正面に据えられて描かれているのだ。自然と人間との関係を深く考えさせる作品である。

 今あげた三作品を読み比べただけで、賢治の自然観や宗教観までうかがうことはできよう。そうした作品の寓話性を探る理論的な読解作業も楽しいには違いない。しかし賢治作品の最大の魅力はそんな理屈っぽいところにはないと私は考える。

 私が感じる賢治の圧倒的な魅力はどこか?それは理屈を超えて迫ってくる、賢治の五感が捉えた「自然」の姿そのものなのだ。賢治の自然に対する全身的な共鳴力とその表現力にはまったく脱帽するしかない。まずは「やまなし」の一節をみてほしい。

 

  二匹の蟹の子供らが青じろい水の底で話していました。

  「クラムボンはわらったよ。」

  「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」

  「クラムボンは跳てわらったよ。」

  「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」

  上の方や横の方は、青くくらく鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つ

  ぶつぶ暗い泡が流れて行きます。

 

 「クラムボン」という謎の言葉が響かせる水中の、川底の流れの音。何か重いものが水中に落ちてたてた音。「かぷかぷ」が二度繰り返され、何かが川面に浮いて流されていく様子。それを二匹の蟹が川底から眺めてまだあどけなさの残る幼い言葉遣いで話している。いつの間にか読者まで蟹になってしまったかのような錯覚をおぼえるほどの迫真の描写力、絶妙なオノマトペ、リアルな身体感覚、これこそ賢治作品の最大の魅力であろう。

 「鹿踊のはじまり」もそうしたみずみずしい描写に富んだ作品である。そこでは主人公の嘉十が鹿の仕草をじっと息を殺して見守っているうちに嘉十が鹿なのか鹿が嘉十なのかわからなくなるほどにのめりこんでしまう一瞬がでてくる。

 その一瞬こそ自然と一体化した至福の瞬間、自他の区別もなく宇宙と融合した一瞬なのだと賢治は言いたいのだろう。何はともあれ、その一瞬、読者も不思議なほどに幸福な時間を享受できるはずである。これは理屈ではない。理屈ではないから、もはや口では説明がつかない。読むしかないのである。

 ぜひ読んでください。

 

最終号(第六号) 賢治 その生と死

 わずか三十七年の生涯を賢治はどのように駆け抜けていったのだろう?

 八歳年下の弟清六はこう述べている。「私は永い間兄の傍にいて、ある人には立派な資格だと言われ、ある人たちには嘲笑され、或る人々にはどうしても理解されないで、しかも自分にとってはこの世では、まことに不幸でもあったこの持って生まれた性格を弟として何とも出来ず全く気の毒でしかたなかったのである。」

 1933年9月20日、夜7時、死の床にあった賢治を農家の人が肥料の相談に訪れた。死の前日のことである。賢治は快く相談に応じ、夜遅くまで時間をかけて懇切丁寧に指導助言したという。翌日、無理がたたって高熱が出た。

 弟は証言する。「…二十一日の昼ちかく、二階で南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経という高い兄の声がするので、家中の人たちが驚いて二階に集まると、喀血して顔は青ざめていたが合掌して御題目をとなえていた。父は遺言することはないかと言い、賢治は国訳妙法蓮華経を一千部おつくりください…と言った。父はお前もたいした偉いものだ、後は何も言うことはないかと聞き、兄は、後はまた起きてから書きますと言ってから、私どもの方を向いて、おれもとうとうお父さんにほめられたとうれしそうに笑ったのであった。それから少し水を飲み、からだ中を自分でオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿をぽろっと落としたときには、息を引きとっていた。九月二十一日午後一時三十分であった」

 彼の絶筆となった短歌二首。

  方十里 稗貫のみかも稲熟れて み祭り三日 そらはれわたる

  病(いたつき)のゆえにも くちん いのちなり

   みのりに棄てばうれしからまし

 

 詩と音楽という共通の趣味で固く結ばれていた親友の藤原嘉藤治は賢治の死から二週間後、賢治を偲んでこんな詩を発表している。

 

      或る日の「宮沢賢治 

 突拍子のリズムで賢さんがやってくる

 カーキ色の服をはずませてやってくる

 午前の国道街は気を付けいだ

 あの曲り角まで来た

 雲の眼と風の変り様で

 どっちへ曲るかゴム靴に聞いてみろ

 

 草藪の娘から借りてきた帽子だ

 野葡萄の香りがして来た

 一体あのユモレスクな足どりは

 おれの方を差しているではないか

 それ用意だ

 おれの受信局しっかりしろ

 

 象の目つきをして戸口に迫って来た

 三日月の扉からまつげが二三本出ている

 地球の切線の方へと向いている前歯

 唇でおおいかくせるものか

 アザラシに聞いてみるがいい

 何だ挨拶などしている

 ほほ

 頑丈な手だ

 スケッチブックを振り回している ああ

 その回転速度を少しゆるめてくれ

 その放射量を減らして貰いたい

 おれはすでにでんぐりかえっている

 八畳の部屋は賢さんで一ぱいだ

 野良の風景であふれている

 よろしい聴こう

 ブレストだってビバアチェだって構わん

 

 ああ少し待った

 とてもたまらない

 そう引っ張り回されておれは分裂する

 

 ぎらぎら光る草原を

 プリズム色彩で歌わされる

 松の葉の先端を通り抜け

 雲の変化形を一々描き分け

 銀河楽章のフィナーレだ

 

 おれのセロはうなり通しに疲れ

 賢さんのタクト棒だってへし折れている

 アメーバの感触と原生林の匂いから

 四次元五次元の世界へだ

 とんでもない心象スケッチだ

 

 賢さん行こう

 ベエトウベエンの足どりで

 イギリス海岸を通って行こう

 イーハートブの農場へ

 トマトの童話でも聴きに行こう

昭和8年10月6日「岩手日報」掲載

 

 生前の賢治を彷彿とさせる、まさに親友ならではの深い想いのこもった詩である。冒頭での「くる」と「来た」の繰り返しと最後のフレーズでの「行こう」の繰り返しに心が揺さぶられます。

 

 最後に賢治自身の詩「告別」の一節を紹介してこの通信を終わらせたい。

 

云わなかったが

 おれは四月はもう学校には居ないのだ

 恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう

そのあとでおまへのいのちのちからがにぶり

きれいな音が正しい調子とその明るさを失って

ふたたび回復できないならば

おれはおまえをもう見ない

なぜならおれは

すこしぐらいの仕事ができて 

そいつに腰をかけているやうな

そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

 

 賢治の優しい笑みの裏側にある子供の持つ純真さへの厳しいほどのこだわり、多くの大人の持つ計算高いずるさを激しく拒絶する賢治の純真さ…

 ハッとさせられませんか?