「千と千尋の神隠し」より
・「千と千尋の神隠し」より
はじめに
「千と千尋の神隠し」を観た人は多いでしょう。もしも観たことがないなら、今すぐにでも君たちには観てほしい。私は大好きなこの作品を倫理の授業で生徒たちに繰り返し鑑賞させています。このアニメ、子供が精神的に成長し親から自立していく=「大人になる」(本質的に引きこもりがちな現代の青年にとって、このテーマは重大だと考えています)には何が必要かを考えていく上で最も核心に触れる教材の一つと捉えています。ですから私の授業では例外的に二度も繰り返し見せることでしっかりと「鑑賞」していただくのです。
あらすじはご存知のこととは思いますが・・・転校によってやや意欲喪失気味の千尋が両親のきまぐれな行動によって突然、不思議の国、「あやかし」たちの蠢く世界へと神隠しに遭います。しかしハクやリン、釜じいらの支えによってたくましく成長していく…つまりこれは一人の女の子の成長物語です。話の展開を追いながらその意味するところを一緒に考えていきましょう。
冒頭、千尋が両親からの支えを完全に失う(両親はブタにされてしまう)という、子供からすればショッキングな場面から始まります。しかも不気味な「あやかし」たちの世界に一人ぼっちで迷い込むのです。作者の宮崎駿は子供にとって恐ろしすぎるこの展開をひどく大げさでユーモラスなタッチで描くことによって心理的な抵抗感を弱める工夫を施してはいますが、それでも子供からすれば相当引いてしまう展開といえましょう。だからこそなおさらハクという頼もしくて優しい存在がクローズアップされてきます。
ならばハクとは一体千尋にとってどういう意味を持つ存在なのでしょう?子供が親から自立していく際に二つのイベントが必要不可欠だと私は考えています。一つは就職。これは言うまでもなく親からの経済的な自立を果たす上で欠かすことのできないイベントです。千尋が「油屋」で働くことになった…という設定の意味するところもこれでお分かりいただけるでしょう。
もう一つは恋愛。間違いなく千尋は優しく導いてくれるハクに恋をしています。初恋でしょうか。恋愛は親からの精神的な自立を促します。もちろん恋愛の先に待つ結婚が親からの自立を決定づけるイベントになることは言うまでもないでしょう。
ただ小学生の千尋に結婚のイベントは早すぎるので、ここではその入り口に位置する恋愛を取り上げたのです。確かに就職と結婚は青年期の人にとって大きなテーマですよね。結婚するかしないかはプライベートな問題なので他人からとやかく言われたくない、とは思われるでしょうが…
さて40歳、50歳になっても親のスネをかじり続けるニートが大勢いるこのご時世。宮崎は真剣にニートの問題をとらえているようです。その証拠が「顔無し」という妖怪。お金さえあれば何でも手に入りそうな拝金主義の現代社会ですが、顔無しもまた偽物の砂金と交換に自らの欲望を満たそうとします。
しかし砂金と交換で手に入れたものはどれだけたくさん手に入れてもまったく顔無しの欲望を満たすことができません。仮面をつけた顔無しはネット社会で素顔を隠したまま自分の欲望を満たそうとするだけの、孤独な現代青年の一部を象徴した妖怪だと思われます。顔無しが本来求めてやまないもの、それは顔無し自身も十分には意識できていないものです。では一体、それは何でしょう?
もちろんそれは「幸福」なのですが、ならば幸福とは一体何でしょう?
メーテルリンクの書いた幸せの青い鳥はどこにいましたか?世界の果てまで冒険してもそれは見つかりません。幸福とはあくまでも主観的な体験であり、心の現象に過ぎないのです。物体のように確固として存在するものではなく、ただの主観的な現象なのです。ですから自分の心をこそ「感じる」べきなのです。
この映画の主題歌「いつも何度でも」の歌詞はこの点できわめて示唆的です。短いので全文紹介いたしましょう。ポイントとなる歌詞を太字にしておきました。般若心経の現代語訳と重なり合うような認識論を感じ取れます。
いつも何度でも
呼んでいる 胸のどこか奥で いつも心踊る夢をみたい
悲しみは数え切れないけれど その向こうできっとあなたに会える
繰り返すあやまちのそのたび ひとはただ青い空の青さを知る
果てしなく道は続いて見えるけれど この両手は光を抱ける
さよならのときの静かな胸 ゼロになるからだが耳をすませる
生きている不思議 死んでいく不思議 花も風も街もみんなおなじ
呼んでいる 胸のどこか奥で いつも何度でも夢を描こう
悲しみの数を言い尽くすより 同じくちびるでそっとうたおう
閉じていく思い出のそのなかに いつも忘れたくないささやきを聞く
こなごなに砕かれた鏡の上にも 新しい景色が映される
はじまりの朝の静かな窓 ゼロになるからだ充たされてゆけ
海の彼方にはもう探さない
輝くものはいつもここに わたしのなかに見つけられたから
感覚があてにはできない幻であるとしても幸せは五感を通じて感じ取るものです。目と耳と鼻と舌と皮膚で感じ取るものこそ幸せの土台となるものです。自分を愛してくれる人の眼差しは温かく感じられます。愛し合う二人がお互いを見つめあうとき、とろけるような幸せを感じることができるでしょう。
愛するものを見つめるとき瞳孔は自動的に拡大し、黒目がちになります。人は黒目がちの眼を見ると反射的に快感を感じてしまいます。だから赤ちゃんの眼も黒目がち、恋人の眼も黒目がち、さらにはそれを見つめるあなたの眼も黒目がちなのです。見つめあうことで幸福はシェアされるのです。もちろん美味しいものを食べたらそれなりに幸せです。好きな音楽を聴いているときも幸せ。
でもここで私が強調したいのは五感の内で最も原始的な感覚でありながら人の幸福感を根底で支えている感覚です。それはどの感覚だと思いますか?
答えは触覚です。触覚は生物がまだ単細胞の時代に早くも芽生えてきた最も原初的な感覚と言われます。ハーローのサルを用いた代理マザーの実験は乳幼児における触感の果たす重大な役割を示唆しました。母親から離された子ザルは授乳する針金製の代理マザーよりも授乳してくれない布製の代理マザーの方に抱きつくことが多いのです。カンガルー抱っこというのを御存知ですか?親が仰向けに寝て赤ちゃんを胸の上で抱っこするのです。いわゆる親子のスキンシップ。肌と肌とのぬくもりのある触れ合いは乳幼児の心を安定させます。スキンシップは人への基本的な信頼感を養うのです。ハーローの先ほどの実験でも針金製の代理マザーに育てられた子ザルは孤立しがちでやがて長期的な神経症を患い、生殖行動にも異常をきたしてしまいました。
ですから私も自分の娘が幼い頃、カンガルー抱っこをし、2歳ころからは添い寝をしていました。弟が生まれて精神的に不安定になりがちな4歳ころからは寝る間際に娘の手を握り、「あっちゃん 大好き、大好き」を繰り返した後に「夢の中まで一緒だよ」とキザなセリフを耳元でささやいて寝ることを習慣化しました。
彼女が中学生の頃は…時折ですが、こんなおまじないを枕元で何度もしました。まず彼女の片方の手を私の両手で挟んで少し調子を取りながら「手のひらサンドイッチ、サンドイッチ、愛情パワー フル充電」と唱え、最後は「あっちゃん大好き、あっちゃん大好き」と添えます。私は結構な親バカなんです。でもそれらの恒例行事が予想以上に私に対してもかけがえのない幸福感を与えてくれたのです。
かつて「愛は惜しみなく奪う」と有島武郎は書きましたが、愛は惜しみなく与え合うものだと私は思います。いかがでしょう。顔無しに決定的に欠けているのはこの気持ちをシェアする、分かち合うという精神です。ですから顔無しは大好きな千尋にも一旦冷たくあしらわれてしまうのです。
ところで快感は二種類に大別されるようです。一つはβエンドルフィンというホルモン(=神経伝達物質)が関わる激しい高揚感を伴う快感で、麻薬のような、しびれるような強い快感です。しかしこの快感はたちまち消失する、瞬間的なものでもあり、さらなる強い刺激を求めて私たちを次の行動へと駆り立ててしまいがち。つまり麻薬性があるので安定した幸福感は期待できない側面があるのです。
顔無しが当初求めていた快感はこのβエンドロフィンがもたらすものにかたよっていたようです。これに対して効き目は穏やかですが持続性のある快感をもたらすのがセロトニンという物質。ノルアドレナリンと同様、うつ病の治療薬にも使われる有名な物質です。このセロトニンを薬に頼らずに脳内で活性化させる試みが今、医療現場で各種、行われていますので後日必ずこのシリーズで紹介いたしましょう。
孤独な顔無しが本来求めるべきはセロトニンのもたらす穏やかな幸福感だったのではないでしょうか?この幸福感は安定した人間関係、強固な絆からもたらされるものです。千尋は引っ越しや転校で一度断たれてしまった大切な絆、安定した人間関係を取り戻すべく、異界に降り立ちました。また顔無しは絆を手に入れるため、静謐なぜにーばの家でしばらく暮らさねばなりません。
さて人の触覚は唇と手のひら(サルと違って移動の手段から解放されたヒトの手は道具を作る器用さを発達させるとともにコミュニケーションに関わるべく触覚を鋭敏にしていきます)が特に敏感と言われます。口づけ、キスは世界共通の愛情表現ですが、たしかに幸福感を最も得られる行為でしょう。
手と手をつなぐことは人と人とをつなぐ「絆」のありがたさを実感させます。「手当」という言葉があるように、人は信頼できる他者から直接肌に手を当てられたり、手と手をつなぐだけで癒されるのです。
目と目を見つめあい、肩を抱いて口づけをすることで二人は無上の幸福をシェアすることができます。手と手をつなぐことで人は「信頼感」をシェアすることができます。「愛」は幸福を分かち合う行為そのものなのです。ハクは千尋と出会った時からからまっすぐに千尋の眼を見つめます。そして幾度も心細くて震える千尋の肩を抱きます。千尋がハクに魅かれてしまうのも道理なのです。
さて本題に戻ります。恐ろし気な「ゆばぁば」の下で「千」として働くことになった千尋は油屋(それにしてもなぜ宮崎は「湯屋」と表記すべきこの銭湯を「油屋」と表記したのでしょう?)で貴重な体験を重ねていきます。まさに「油屋」は千尋にとって見知らぬ大人の世界そのものであり、最初は戸惑いの連続。それでも持ち前の率直さ、子供らしい純粋さで様々な試練を乗り越えていきます。
そうなんですね。大人になっていくことは子供らしさのすべてを捨てていくことではありません。宮崎はおそらく率直で物おじしない、子供の純粋さを千尋に保たせながら、なおも千尋を大人の世界に導いていく、その道筋を示そうとしているのです。
リンという頼もしい姉御肌の先輩も実に魅力的です。職場にこんな先輩がいたらとても勇気づけられますね。それに釜じいの存在も大きい。彼は大勢の「すす」たちをこき使う一方で時折、千尋に豊富な経験値から導き出される桁外れの洞察力を示します。そして千尋に「ぜにーば」に会えるよう、大切にしまってあった切符を渡します。千尋がハクに恋をしていることを見抜き、その恋が成就することを真剣に応援しているのです。
2.宮沢賢治の世界
「千と千尋の神隠し」の深読み、解読に欠かせないのは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という童話です。要所に出てくる水辺を走る電車は明らかに「銀河鉄道の夜」から着想を得ているからです。「千と千尋の神隠し」という物語の構成自体も大きなインスピレーションをこの作品から得ていると思われます。なぜなら異界に旅する過程で様々な経験を積んだ少年(少女)が「本当の幸せ」を目指して大人に向かって大きく一歩を踏み出す・・・という展開は二つの作品に共通するモチーフだからです。
そもそも「千と千尋の神隠し」に登場する「油屋」や電車、駅周辺に登場する人物の服装は多くの場合「銀河鉄道の夜」が書かれた昭和初期のものと同じなのです。ですからこの作品を作るにあたって宮崎駿の頭の中に「銀河鉄道の夜」がかなり大きな地位を占めていたと考えられます。
しかし「銀河鉄道の夜」は子ども向けの読み物とはいえ、実は非常に難解であることで有名。まさに「諸説あり」の現状なのです。そこで理解しやすくするためにも作者である宮沢賢治の大雑把な全体像をつかんでおきましょう。
実は20年近く前、私が某高校に勤めていたときですが、岩手県(賢治は岩手県花巻出身)でのスキー体験学習をかねて東北が修学旅行先になっていました。その際、宮沢賢治記念館や小岩井農場など賢治に関わるスポットも訪れることになっていました。比較的物わかりの良い生徒が多かった選抜クラスの担任をしていた私は、これ幸いに自分の好きな宮沢賢治を特集した学級通信を6号まで出したことがあったのです。生徒たちの多くは内容をほとんど理解していなかったようですが・・・
何はともあれ20年余り前に私が書いたものではありますが、読み返してみるとここで使えそう。そこで今回は「イーハトーボ通信」と題した学級通信(2000年7月の第一号から始まり、12月に第6号を出して終了)に少し手を加えて2号といたします。「千と千尋の神隠し」の深読みシリーズはこの先も幾度か寄り道を繰り返しながらまだまだ続きますよ。
イーハトーボ通信第一号(2000.7.19)
巻頭言
まず「イーハトーボ」とは、かの宮沢賢治(1896~1933)が造った言葉である。それは岩手県の花巻あたりを念頭に置いた、賢治の原風景が幻灯のごとく明滅する作品中の架空の地名なのである。…途中略…とりあえず今回は創刊号なので、賢治のおおまかな人間像と代表作を、誤解と偏見を恐れずに解説しておこう。夏休みの読書感想文で何を読むか困っているあなた、せっかくだからこの際、賢治を読もう。
宮沢賢治という人
賢治は今から100年余り前の1896年、岩手県の花巻でかなり裕福な商家(古着商兼質屋)の長男として生まれた。もっとも彼はこの裕福な家の出であることを終生、恥じていたようである。盛岡中学校(旧制)を経て、19歳で盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に首席で入学。このころ法華経に出会い、感銘を受ける。賢治作品の特色となる宗教性と科学との融合は、この農学校時代に端を発するようである。
※法華経:大乗仏教においては最も重視されたお経で「大乗妙典」とも呼ばれ、日本ではどの宗派であっても尊重された。特に日蓮は法華宗を開き、法華経以外を退けて「南無妙法蓮華経」と唱えるお題目を奨励した。
1918年、22歳で卒業後、賢治は童話の創作も手掛けるようになったが、家業への嫌悪感(主に貧しい人から搾取する質屋の仕事を特に毛嫌いしていた)や信仰上での対立(父親は熱心な浄土真宗の信者であったが彼は法華宗に傾倒。日蓮は浄土真宗を特に嫌って「念仏無間」という言葉を残している)から父親とは折り合いが悪くなってしまった。1921年1月、ついに彼は家出を決行し、東京に出てアパートの一室を借りて法華宗の教団の一つ、国柱会の一員として布教に励むとともに、猛烈な勢いで童話を書きまくった(ひと月に三千枚のペース!)。
ところが半年も経たぬうちに妹トシの病状が悪化し、帰郷して稗貫農学校(1923年花巻農学校に改称)の教師となった。以来、1926年までの4年と4か月の間、彼は教員生活を送ったが、この間、父とも和解し、詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」を出版するなど、公私ともに充実した日々を過ごしている。ただし生徒たちには「立派な農民になれ」と教えていながら、自分では農業をやらずに給料取りとなっていることへの心苦しさが募り、1925年、教職を辞して独居自炊の生活に入った。そして羅須地人協会を設立して農業を営むかたわら無料で農民の芸術活動を支援し、肥料相談にも応じた。
もともと丈夫ではなかった賢治にとって慣れぬ農作業と休む間の無い協会での活動、さらに極端なまでの粗食は確実に彼の体を蝕んでいった。とうとう1928年、肋膜炎で倒れて協会を辞し、翌年、採石場の技士となったがやはり無理がたたり、たちまち病床に臥して2年余りの闘病の果て、1933年9月21日、永眠した。享年37歳、独身のままの生涯であった。
オススメの作品
「どんぐりと山猫」「なめとこ山の熊」「鹿踊りのはじまり」「やまなし」
「銀河鉄道の夜」
賢治ワールドの魅力
賢治の熱狂的なファンを「ケンジアン」と呼んだりするのだそうだが、このケンジアン、意外なほどに多い。なぜ賢治ワールドに多くの人が魅了され、そのとりこになってしまうのか?詳しくは次号以降で触れるが、まずはその迫真の描写力に参ってしまうからだろう。
鳥山敏子は「賢治の学校」(サンマーク出版1996)の中でこう書いている。
…宇宙のなかでは、すべてがひとつにつながっている。賢治のからだがそう感じる。賢治が自然と同化し、自然のなかに棲息する生きものや、土塊、風や光たちにこころを通わせるのは、賢治のからだがそうさせるのだ。世間の人々は自然と交感するそういう賢治を見て、大人になってない…変わっている…そんなことありえない…などというかもしれない。
だが、「何と云はれても」と賢治はいう。
何と云はれても
わたくしは ひかる水玉
つめたい雫
すきとほった雨つぶを
枝いっぱいにみてた
若い山ぐみの木なのである
この詩に体ごと感ずるものがあった人はすでに賢治ワールドの住人なのである。オススメの作品として挙げたものはいずれも賢治の自然を体感してしまう「異能」によって今も光り輝いている。
イーハトーボ通信第二号 異界からきた教師
宮沢賢治は花巻農学校で1921年12月から1926年3月までの4年余りを教師として過ごし、その間、英語、数学、化学、気象、作物、土壌、肥料、農業実習などの授業を受け持っている。全校生徒わずか70人の小さな学校で二十代後半の賢治がいったいどんな教師生活を送っていたのか…当時生徒だった人たちの証言から農学校時代の賢治の異才ぶりをかいまみてみよう。
まず彼は授業を始めるにあたって次の三つのルールを話したという。
一つ 先生の話を一生懸命に聞くこと
二つ 教科書は開かなくていい
三つ 頭で覚えるのではなく、身体全体で覚えること。そのかわり大事なこ
とは身体に染み込むまで何回もおしえる
さて、実際に行われた授業の一例を挙げてみる。
しめ縄に細いわらを二、三本下げる風習があるでしょう。あれはね、君たちなぜだか分かりますか?
太いしめ縄は雲、細く下がっているのは雨を表しています。そして白い紙でできている御幣は稲妻だったのですね。
ではなぜここに稲妻が出てくるのでしょう?
実は、稲妻は空気中の窒素を固定して、雨といっしょに肥料となる窒素を地中に染み込ませる働きがあるのです。千葉県の船橋にある無線電信局の塔の下に麦畑があります。で、その畑は以前からなぜかちっとも肥料をやらなくとも麦がよく実ったのです。これは稲妻と同じ原理で、高圧線の放電現象による空中窒素の固定によるもの…窒素は作物にとって最も重要な肥料の一つですが、空気の八割も占めているくせに普段はガスのままとどまり、地上には降りてきません。
しかし放電現象などにより、窒素と酸素が化合して酸化窒素となり、その酸化窒素が雨に溶けて硝酸となって地上に降る。つまり雷雨の中には多くの窒素肥料が含まれているのです。そういえば雷の多い年は豊作だといわれているし、しめ縄も、もともとは五穀豊穣を祈念するものであったらしい。とすると雷が「稲妻」とも言われる理由がわかろうというものですね…
「わかりやすく ためになる」これが授業に対する賢治のモットーであった。誰よりも早く学校に来た賢治は授業の前に必ずその日の教材に目を通した。授業の始まりもこんな様子だった。まず小使い室から出てきた小使いさんが鐘を鳴らす。ひたひたひたひたと早足の足音が聞こえて鐘が鳴り終えると同時に賢治がドアを開けて入ってくる。やや出っ張り気味の歯を隠すために、少し無理して上唇で下の唇を押さえている。その顔がなぜだかいつも微笑しているようにみえる。きっちりとまず自分の方からおじぎをする。そして軽い冗談をいってわらわせ、上記のような綿密に設計された授業が展開されていくのである。
もちろんどんなに工夫していても、生徒たちのなかには飽きてしまうものがでてくる。すると授業時間の終わりの方、5分か10分、自分が創作した童話や詩を読んで聞かせることもあった。また黒板を前にしての講義ばかりでは退屈してしまうので、実験や実習もたっぷりおこなっている。
特に賢治は野外にでるのが好きで、北上川の川岸に彼が名付けたイギリス海岸という箇所があり、賢治だけでなく皆のお気に入りのスポットとなっていた。そこで土壌学の実習と称しては化石を採集したり、雑談にふけったり、ときには茶目っ気のある悪戯もしたり…こんなエピソードが残っている。
宮沢賢治式スイカ失敬作戦というのがあった。北上川で遊んでいるとき、岸辺の笹竹を切ってその茎をストロー状に細工する。川の向こう岸にはスイカ畑があって、そこまでストロー加えて泳いで渡り、うまそうなスイカを見つけてはぐさっとストローをさして吸う。農家の人がそれを見つけておこって生徒を追いかけてくる。まるっきりスイカ泥棒のようだが、実は前日、賢治がこっそりと畑の持ち主にかけあって、あらかじめスイカを買い切っていた…いかにも芝居好きの賢治らしい、大掛かりで演出の凝った「スイカ泥棒ごっこ」といえよう。
遠出もよくしたらしい。生徒を引き連れて岩手山や周辺の温泉などに泊りがけで行く。たいていが賢治の気まぐれから始まるから時間は問わない。「先生は夜、家を出てどこかまで歩き、一睡もせずに翌朝帰り、そのまま授業に出る。たびたびそんなことをされた。くたくたに疲れたときほどいい詩が書けるといった。最もよく詩を書かれたのは夜半のようであった。うれしいときはアカシアの花の下、クローバの花咲く野で踊り、秋は白い萱穂のなかに飛び込み、稲田の向こうから月が出るのを見るとホホホホーと叫ぶ。…左手をポケットにいれ、首にペンシルをぶらさげてね。それで実習の列の先頭に立って、猫背にしてこう歩くんですよ。麦藁帽子で、歯出してね。それが突然、天から電波でも入ったかのように、さっさっさっと生徒を取り残して前の方へ駆けていくのですよ。そうして跳び上がって、ほっ、ほほうっと叫ぶのですよ。叫んで体をコマのように空中回転させて、素早くポケットから手帳を出して何か物凄いスピードで書くのですよ…
今なら中学生に当たる当時の少年たちにとっては変人とも見られかねない賢治の奇行ぶりなのだが、宮沢先生の評判は周辺の小学校まで知れ渡っていた。農業に興味のない子までが宮沢先生に教わりたくて花巻農学校を受験したほどであったという。
教師賢治の魅力を示すエピソードはまだまだある。授業中、ノートもとらずにふざけていた二人の生徒に対し、賢治は黙ってみていたかと思うといきなり持っていたチョークをガリガリとかじりはじめた。皆、しいんと静まり返ったという。
また生徒の一人が盗みで警察沙汰になったことがあった。職員会議で退学処分となったが、賢治は吹雪をものともせずに警察へ行き、三日続けて説得を試みた末、どうにか不起訴処分とした。さらに校長たちを説得して退学処分を取り消させたうえ、就職の世話までして卒業の時には新調の背広まで持たせてやったという。
まったく欲も無ければ骨身を惜しむこともない。全身全霊で教師生活に打ち込んでいたのであろう。そしてそれが賢治にとって途方もなく幸せであったようだ。教壇を去るとき、彼は生徒たちにこう言い残している。「この四か年が私にとってどんなに楽しかったか、私は毎日を鳥のようにうたってくらした。誓っていうが私はこの仕事で疲れを覚えたことはない・・・」
だからこそ生徒たちも賢治のあとをついていったのだろう。思春期の男ばかりの農学校で劇や合唱など、普通は恥ずかしがってやれっこない。しかし賢治は幾度となくそうした催しを試みている。1924年の夏、「ポランの広場」など自作の劇を二日間にわたり四作も上演した時には、夏休みの内二十日間も練習に費やし、終わりの一週間は何と学校に泊りがけで稽古した。公開だったので練習は相当厳しかったらしいが、脱落する生徒は一人もいなかった。きっと生徒をひきつけてやまない魅力が賢治にはあったのだ。結局、公演は三百人もの観衆を集め、大好評のうちに幕を閉じたという。
もっともすべての生徒が彼を慕ったわけではない。なかには「授業中、四次元の世界ということをよく聞かされた。私には実に希代なことをいう先生だと思った。また先生はよく作品の朗読をしたが、昔ばなしでもないし、小説でもないし、現実離れしていてよくわからなかった…私らとは考え方がかけ離れていて、理解できなかった面が多い」と回想する人もいる。
確かに賢治は時々何かにとり憑かれたかのようになって自己の世界に没入してしまい、周囲を驚かせることが多かった。特に詩作のインスピレーションを感じたときの賢治の言動には異様とも受け取れる奇抜さがある。さらに日蓮宗への傾倒ぶりは常軌を逸していた側面があったことも事実だろう。そういえば彼の中学時代のあだ名に「変人」というのがあった。
ただこの「変わっている」という評価は必ずしも賢治にとって、またその教え子にとってマイナスばかりではなかった。良くも悪しくも強烈なインパクトを生徒たちの脳裏に焼き付けたのだ。もう六十年も経とうというのに、あの時のことをまるで昨日のことのように彼らの多くは生き生きと思い出すことができる…
一体、私たちは自分のかつての担任をこれほどまでに鮮明に思い出すことができようか?一年前ですら覚束ないのではないか?賢治の教師生活はたったの四年と三か月ほどにすぎない。十年、二十年と教師生活を送ったところで普通の教師には決してなしえないことを彼はやってのけた。まさに「異界」から来た「異能」の人なのである。
参考文献
「証言 宮澤賢治先生~イーハトーブ農学校の千五百八十日~」佐藤成
農文協 1992
「教師宮沢賢治のしごと」畑山博 小学館 1988
イーハトーボ通信第三号 タイタニックと銀河鉄道の夜
大ヒットを記録した映画「タイタニック」、覚えている人も多いと思う。監督はジェームズ・キャメロンで、実際にあった事件をもとにしながらも巧妙なフィクションを織り交ぜて感動的なストーリーを作り上げていた。特にレオナルド・ディカプリオ演ずる青年が恋人を助けるために最後は水中に沈んでいくシ-ンなどは涙なしでは見られない。私もついビデオまで買ってしまった。
映画で取り上げられたタイタニック号沈没事件は1912年4月の出来事であった。不沈の豪華客船とうたわれたタイタニック号はあっけなく処女航海で氷山と激突して北大西洋の深海に沈み、1523人もの人命が失われてしまった。海難史上、最悪の事件として瞬く間に世界中に知れ渡ったこのニュースを宮沢賢治は一体どんな思いで受け止めたのだろう。1896年生まれの賢治は当時、15歳。旧制盛岡中学校の生徒として多感な思春期の真っ只中を過ごしていた。その彼がどれほどの衝撃をこの事件から受けたのかは、事件の十年後に書かれ始めた「銀河鉄道の夜」を読めばわかるだろう。その一節にこうある。
…いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、…霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死になって、どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました…
救命ボートの不足により、この事件の悲劇性はいっそう深まった。と同時に誰がボートに乗り、誰が乗れないかをめぐる命がけの壮絶なドラマが展開した。キャメロン監督のみならず、賢治もまたここに注目したのである。「グスコーブドリの伝記」でも描かれた、他者のために自己の命までも犠牲にするというモチーフは賢治作品を理解する上で欠かすことのできないものである。タイタニック号事件はまさに賢治がとびつきたくなる様な、崇高な自己犠牲のドラマにみちみちていた。
したがってタイタニック号事件に触発されて書き始めた「銀河鉄道の夜」に対する賢治の入れ込みようにもすさまじいものがあった。彼はその原稿をまさにライフワークであるかのように、死ぬまで手を加え続けたのである。つまり厳密にいえばこの作品は賢治の死によって未完のまま、彼の代表作という評価を得ている。まさに執念の産物である。短編の多い賢治にとって原稿用紙で83枚という長さもそのことを物語っていよう。ただ全力で取り組んだ作品だけにあれもこれもと欲張った印象があり、作品の解釈をいっそう難しいものにしているようである。ここでは簡単なあらすじを紹介するにとどめよう。
ジョバンニとカムパネルラは無二の親友だったが、あるお祭りの夜、川に流された意地悪な同級生ザネリを救うためにカムパネルラは川に飛び込んで行方不明となってしまう。そのことを知らないジョバンニは一人寂しく、夜の野原に寝ころび、いつの間にか異次元の世界に入り込んでいた。気が付くと列車に乗っていたジョバンニは宇宙を旅するというカムパネルラと再会を果たす。さっきまでの寂しさを忘れてジョバンニはカムパネルラとともに銀河鉄道の行程を楽しむことになった。幻想的な光景が車窓に繰り広げられる中、やがてタイタニック号の犠牲者として3人の人物が乗り込んでくる。この列車は何処に向かって走っているのか…不安がよぎる中、突然、天上界に向かうと言い出したカムパネルラとの別れが訪れる。しかし一人残されたジョバンニは「本当の幸福」を、勇気をもって追い求める決心を固めていた。やがて草むらで目を覚ましたジョバンニは家に帰る途中、カムパネルラの死を知ることになる。
この作品の最大の魅力は銀河鉄道で彼らが出会う、深遠なインスピレーションに満ちた幻想の世界にある。しかも壮大でユーモラスな場面もある一方で、常にどこか哀し気な彩りがつきまとっている。この作品の主題が深く死の世界と関わっているからだろう。銀河鉄道の幻想界で生者はおそらくジョバンニただ一人である。彼が出会う死の世界と死者たちが、彼に「本当の幸福」とは何かを暗示してくれているのだ。それにしてもジョバンニとカムパネルラの別れのシーンは哀切きわまりない。別れは直ちにカムパネルラの死を意味するからである。
映画「タイタニック」で最後まであきらめずに恋人ローズを励まし続けた青年ジャックが、ついには力尽きて海の底へ沈んでいくシーン。一人残されたローズは凍えながらもジャックが命がけで残してくれたメッセージをつぶやく。君に与えられた人生を僕の分まで思う存分生き抜いてほしい…
ジャックがローズに託した想いとカムパネラがジョバンニに託した想いとは一見似ているようでいて重大な違いがあるように私には思われる。映画「タイタニック」の主眼はジャックとローズの二人の関係に置かれているが、「銀河鉄道の夜」は個人と社会との関係性を問う。決してジョバンニとカムパネルラの友情が物語の核心ではない。確かに「タイタニック」でも最後まで乗客たちの不安を慰めるために演奏を続け、船とともに沈んでいった楽団員たちの崇高なエピソードが紹介されてはいる。ただこれも映画全体からすれば一つのエピソードに過ぎない。すなわち沈没事件の悲劇性を盛り上げ、ローズとジャックの別れの場面を効果的に盛り上げる材料の一つとして扱われただけである。しかし「銀河鉄道の夜」は二人の友情をはるかに超える広大な世界をテーマとしている。だからこそ列車は宇宙を走らなければならぬかのように…二つの作品の間に横たわる世界観の違いは決定的に大きい。
映画ではその後のローズの生きざまが簡単に触れられる。お金持ちの婚約者とは結婚せず、様々なことに雄々しくチャレンジするたくましい女性の生涯。いかにも個人主義のアメリカらしい結末である。最近、プラバタイゼーション(私事化と訳されることが多い)という言葉がよく使われるようになった。プライベートなことばかりに関心を持ち、公共性に乏しい現代人を批判する文脈で登場してきた言葉なのである。映画「タイタニック」はそうした現代人の心のありようにぴったりとフィットしていたのだろう。世界中で記録を塗り替える大ヒットとなった。しかし二人の枠を超えた人類的広がりをもつ絆を構築しようと試みる賢治の真摯な姿勢は、こういう時代だからこそ、もっともっと評価されてもよいのではないか。いかがでしょう。