能と狂言・日本的美意識の原点
今回も20年近く前に作成した授業プリントのご紹介。データが古いですが悪しからず。また空欄はご自分で埋めてください。
・日本の伝統芸能:能と狂言
( )組( )番( )
始めに
能や狂言は歌舞伎や落語よりも歴史が古く、一層、理解の難しい芸能である。古語のため解説抜きでは演者のせりふのほとんどがわからない。双方とも国家の保護を受けなければ営業的には成り立たないのも当然である。このところ狂言界では野村萬斎や和泉元彌などの若手が俳優としてテレビドラマにも登場し、人気を集めているが、だからといって狂言自体が大衆芸能として興行的に成り立つとは思えない。俳優の人気が狂言の人気に決して結びついていないからである。結局、能も狂言も国家の保護を受けながら、なんとか文化遺産としてその伝統を絶やさぬように細々と頑張るしかあるまい。
しかし国家の保護が必要とされることは能や狂言にとって悪いことばかりではなさそうである。能や狂言は他の芸能とは違って時代の変化に合わせる必要もないし、保護のおかげで営業上の成績もさほど気にしなくてよい。生き残りのための熾烈な競争からはとっくに解放され、むしろひたすら伝統を忠実に守り続けることが要請されている、まさに古典的な芸能なのである。とはいえ
伝統の保守という一事に専念するなかで守るべき伝統とは何かが厳しく問われているのも事実だろう。そうした能楽の世界に、現在、欧米の関心も強く寄せられてきている。おそらく能楽にこそ日本の伝統美が色濃く残っていると彼らは期待しているのであろう。実際、2001年には( )から能楽が無形文化遺産としては日本で初めて世界遺産に登録されている。
では世界からも注目された能や狂言において受け継いでいかなければならない日本の伝統美とはいったい何だろう?今回は能を中心にすえてこの疑問の解明を進めてみよう。
1.歴史
奈良時代に伝来した散楽(曲芸などの雑技の総称)を源流に平安時代になってこっけいな物まね芸や言葉芸が中心の猿楽という芸能が発展してきた。この猿楽に田楽(農村で発生した田植え神事にともなう芸能で歌舞音曲を主体)などの民衆芸能が取り入れられ、歌舞音曲をともなう劇仕立ての「猿楽の能」が鎌倉時代に成立。近畿地方中心に盛んとなり、芸能共同体としての( )が数多く結成されるようになった。奈良の興福寺、春日大社に所属する大和猿楽四座(現在の流派でいうと金春、金剛、宝生、観世に相当)はそのなかでも特に有名であった。この大和四座の一つ観世座(当時は結崎座)の棟梁であった観阿弥清次(1333~1384)、( )元清(1364?~1443)父子はすぐれた演技力で他を圧倒し、室町幕府将軍
( 氏)の保護を受けつつ、能を単なる芸能から芸術のレベルにまで高めて大成させた。
彼らはすぐれた役者であっただけでなく、能の創作と理論の両面にわたって多大な貢献をしている。観阿弥は多くの謡曲を創作し、能の基本を完成させ、子の世阿弥は最初の能楽論書である「 」を著した。観阿弥・世阿弥父子の代にいたって「猿楽の能」は( )の美を追求する芸道へと洗練されていったのである。世阿弥の「 なり」という言葉に象徴される、日本独特の簡潔にして象徴的な美学が余白と省略を重んずる水墨画の隆盛と同時期に完成していったのも偶然ではあるまい。
この時代は能楽のほかに連歌や茶の湯といった大勢で楽しむ「一座共感」、「寄合」の芸能が生まれ育った時代でもあった。武士とともに民衆も台頭し、上位の敵には( )を結成して数と団結力で対抗するというこの時代の風潮が芸能の世界にも色濃く反映しているのである。また南北朝の争乱を経て一層没落の途を歩む貴族たちを目の前に、京の人々は「 観」を強めるとともに過去の王朝貴族の優雅な文化を懐古する傾向をも生み出した。王朝文化への懐古趣味と「 和歌集」に見られた幽玄の美意識が混ざり合うなかで能楽の主たるモチーフが形成されているといえよう。
2.能楽鑑賞のための基礎知識
①能舞台;初期の能舞台は( )に奉納するという能楽本来の性質から
( )内に造られ、神殿に面していた。四角い本舞台(約5.4m四方)に橋掛かり(舞台と演者の控え室に相当する鏡の間をつなぐ手すりつきの廊下で舞台の一部でもある。登場や退場の通路としてだけでなく、「あの世」と「この世」、湖と岸、空と地上といったような、本舞台とは別の空間として用いられることもある。歌舞伎の はこれに由来)、その周囲には白洲(玉砂利がしかれ計5本の若松が植えられている)、本舞台の鏡板(背景として老松が描かれている)など現在の能楽堂に通ずるような舞台が完成したのは室町時代末期であろうと考えられている。
なお本舞台の床の下には音響効果をよくするために大きな瓶が13個(橋掛かりにも2個)置かれている。歌舞伎の舞台と比べればきわめて( )な構造であり、舞台上の大道具(→⑥)の素朴さとともに簡潔さを旨とする「幽玄の美」の世界を体現したものとなっている。
②演者;「 」(仕手つまり主役)と「ワキ」(脇役)の二人で演ずるのが基本形態。多くの曲において「シテ」は「ワキ」が仮寝の夢に見た幻として面を付けて出現するパターンをとる。なお「シテ」「ワキ」それぞれに「ツレ」と呼ばれる助演者がつくこともある。演者の他に、地謡(謡を斉唱するコーラス団)や囃子方(笛、小鼓、大鼓、太鼓)が舞台の奥や脇に座る。「ヤッ」とか「イヤー」というあの独特の掛け声は囃子方がやっており、きちんとした楽譜が無いなかで息を合わせ、調子をとるために掛けられている。この掛け声はシテやワキの動きにも影響を与え、場面が緊迫の度合いを強めるとともに掛け声も緊迫感を帯びてくる。掛け声と囃子、謡、
舞がお互いに緊張感を高め合い、一体化しながら一種独特の緊迫した舞台空間を現出させていくのである。
③演目;約250近くの演目があり、演じられる形式の違いから( )能と現在能に大別される。世阿弥が考案したという夢幻能は「ワキ」(大抵は旅の僧)の前に「シテ」が化身の姿で現れ、話かけられて「ワキ」が不審に思う内に退場(中入)、後半で「シテ」はその正体を現して生前のことを語り、消えてゆくパターン。現在能は夢幻能のように話が過去へタイムスリップせず、現実の時間通りに劇が進行するもの。
④舞;能は「舞う」といい、役者の「舞」が最大の見所となる。舞は踊りを主とする「舞事」と演技的要素の強い「働事」に大別される。いずれにせよ役者の動きには一定の型(300近くあるという)があり、その組み合わせで舞は構成されている。たとえば「構え」とは軽く膝を曲げ、上体をやや前傾させた立ち姿の型のことで、この姿勢からすべての動きが始まる。またこの「構え」を崩さずに上体を揺らさず、すり足で移動することを「運び」と言い、最も基本的な型である。型には扇を使う型が多く、広げた扇を目、口、胸に当てればそれぞれ「目がくらむ」、「煙にむせぶ」、「胸が痛む」を意味するなど、知っておかないと理解に困るものもある。
何はともあれすべての所作はあらかじめ決められており、振り付けの決まっている踊りとよく似ている点から「舞う」と言われるのである。
所作に誇張の多い歌舞伎と違って、きわめてスローで控えめな動きをとるのが能の最大の特色であり、所作を必要最小限に抑えることで逆に無限の広がりを表現しようとしている。まさに「 」の幽玄の世界が追求されているのである。
⑤作り物;舞台上の大道具のことで概して簡素かつ象徴的な形をとるため、何を表しているのかわかりにくいものも多い。たとえば「一畳台」と呼ばれる高さ約20cm、畳一枚ほどの台は貴人の座だけでなく、時には橋や鍛冶場、高所を表わすこともある。もっともこうした省略と単純化のはてに幽玄で象徴的な舞台が成り立ってきたわけなので、現代劇のようなリアルな大道具はかえって能には不向きなのであろう。
⑥面(おもて);翁(神格化された老人)、尉(老人)、鬼神(神霊)、怨霊
(幽霊)、女、男、その他に分類される。よく「能面のような無表情な顔」と言ったりするが、正確には正反対の感情のどちらともとれる「中間感情」を表現しているのであって決して「無表情」ではない。舞の型によって生ずるわずかな面の傾き(「テル」;やや仰向けにする→笑う、「クモル」;ややうつ向く→泣くetc)で本来無表情のように見えたはずの面に喜怒哀楽などの複雑微妙な表情が多彩に浮かび出る。一つの面のわずかな陰影の変化と傾きだけでこれだけ多様で奥深い感情を表現できるのは世界広しといえども日本の能面以外にはあるまい。能の美学が集約された、まさにそれ自体で鑑賞に堪えうる高度な芸術作品でもある。
⑦「 」;物語の「起承転結」に相当するものであるが、ただ単に物語の構成だけでなく、足の運びから囃子のリズム等、能のすべてについてまわるキーワードである。簡単にいえば初めはゆっくり荘重に、やがて徐々にテンポをあげ、最後はきびきびと終結するという基本的な展開をいう。たとえば足の運び一つとっても最初の二三歩はゆっくりと歩き、次第にスピードを上げて止まる直前までいき、最後の一歩でしっかりと止まるという具合。能でよく言われるスローな展開は序の段階に限られるのであり、クライマックスは意外なほどにスピーディーである。確かに最後まで動きは抑制されてはいるが、そのことでかえって内面の激しさが伝わるように工夫されているのである。したがって舞が終わった瞬間はあたかも一陣の激しいつむじ風が通り過ぎていったかのような感慨を覚える。嵐の過ぎ去った後の静けさに一層、無常観が深まり、奥深くから「幽玄の美」がたち現れる…そうした展開が「序破急」という構成によって目指されているのである。
3.VTR鑑賞「能・狂言鑑賞入門」3ch 日本の伝統芸能より
「八島(屋島)」その一「いでその頃は元暦元年」
※元暦元年は1184年、ただし「吾妻鑑」によると元暦2年(1185年)
「八島」は世阿弥時代から上演されていた夢幻能。武将の死霊が登場するので「修羅能」とも分類される。シテは観世元昭あらすじ;讃岐国屋島である夜のこと、月が昇り始めた頃に一人の旅の僧(ワキ)が浦へやってきた。そこに二人の漁師が現れて僧は塩焼き小屋に泊めてもらえることになった。屋島は源平の古戦場として名高い。僧は老いた漁師(マエシテ)に源平の戦話をしてくれるよう頼んだ。すると漁師は
( )の出で立ちや奮戦振りをまるで昨日のことのように生き生きと語り始め、最後に自分こそが義経であるとほのめかして姿を消した。そこへ塩焼き小屋の持ち主(アイ)が現れ、僧がこれまでの不思議な体験を伝えると、それは義経の亡霊であろうと告げ、那須与一の話などを聞かせて去った。夜半過ぎ、僧が待ち受けていると義経の霊(アトシテ)が甲冑姿で現れ、屋島の合戦の様子を身振り手振りまじえて再現してみせるうちに夜明けとなり、忽然と消え失せてしまった。
解説;平家物語の一節を元につくられた曲で主に屋島の戦いを義経の立場で描いている。源義経は屋島の戦い等で平氏側を追い詰め、最後は壇ノ浦で1185年、これを滅ぼすが、兄の( )にうとまれ、1189年、非業の死を遂げた。「判官びいき」と言う言葉があるように悲劇の英雄扱いされた義経はさまざまな文芸作品に繰り返し取り上げられ、能や歌舞伎等の芸能でも人気の伝説的ヒーローである。その義経が死後、( )の世界に落ちて屋島に戻っては修羅の戦いに明け暮れるという、苦患に満ちた英雄の死後の姿を描いたのがこの「八島」なのである。武将を扱って能としては珍しく激しさが前面に出る内容ではあるが、逆にその激しさが去った後のひときわ深まる海辺の静けさに「 観」が一層色濃く漂う仕掛けになっている。
なお今回の場面は老いた漁師が自らを義経とほのめかして消え去るところまでの前段を収録している。
参考文献
・「能楽への招待」梅若猶彦 岩波新書 2003年
・「能 狂言鑑賞ガイド」羽田 昶監修 小学館フォトカルチャー 1999年
・「お能の見方」白洲正子・吉越立雄 新潮社とんぼの本 1993年
・「こんなにも面白い古典芸能入門」博学こだわり倶楽部編
kawade夢文庫 2003年
・「能のわかる本」夕崎麗 金園社ハウブックス 1988年
日本的美意識の原点;国風文化=藤原時代
( )組( )番( )
始めに
古代における日本文化はあらゆる点において大陸の文化、特に中国文化の圧倒的な影響を受けて成立してきた。いわゆる( )文化=中国風文化が長らく日本を支配してきたのである。しかし平安時代の中頃、だいたい9世紀を境にして、それまで中国一辺倒だった日本の文化が次第に「日本らしさ」を強く帯びてくるようになる。中国文化の単純な物まねの域を脱し、日本風味をアレンジした、いわゆる
( )が登場してくるのである。この国風化の動きは文化の様々な側面で進行していった。
その最も重要で代表的な例が( )と( )の二種類の「仮名」の成立であろう。「仮名」は漢字の「つくり」や「へん」を使ったり、草書体風に崩して書かれるうちに作られた、日本独自の( )文字(漢字から派生したものではあるが・・・)である。それまでの日本は自分たちの文字を持たず、「漢文」で表記してきた。「和歌」の表記も万葉集などはいわゆる「万葉仮名」と呼ばれるような、漢字の読みを日本語にあてはめただけの非常に不便なもので表記してきたのである。
しかし9世紀頃に登場した「仮名」のおかげでこれ以降は日本語を漢文のルールに制約されずに自由に表記できるようになった。この結果、中国とは微妙に異なる日本独自の美意識を文字通り「日本語」で表現し、記録することも可能となったのである。「仮名」は国文学の世界をすでにあった和歌の枠から散文の世界まで押し広げ、10世紀から11世紀にかけて「 物語」や「枕草子」といった日本の誇る古典文学を成立させる上で決定的な役割を果たした。この国風化の動きをさらに推し進めたのが894年、菅原道真の建議による( )の廃止であった。日本がこれまで休む間も無く受容し続けてきた大陸文化がこれにより一旦、断絶することで、外来の文化はようやく「日本的」に熟成される時間を得たのである。
日本的な美意識の台頭は御所の植木が、中国で愛でられてきた( )を中心とするものから、9世紀になって次第に( )中心に植え替えられていったことにもうかがえる。( )氏を中心とする貴族が都でその「桜」のごときはかなくもあでやかな文化を花開かせた藤原時代こそ、時の移ろいに心を動かす、まさに日本的美意識の原点なのである。今回は藤原時代の優雅な貴族文化を代表する、宇治の平等院鳳凰堂をとりあげ、日本的美意識の原点とは何かを考えてみることにしよう。
1.時代背景;藤原時代の絶頂期を築き上げた( )が亡くなって(1027年没)四半世紀がたち、ようやく藤原氏の栄華にかげりが見え始めた1052年、道長の子、頼通が宇治にあった別荘を寺にして「平等院」と名づけた。
1052年は( )の世に突入する最初の年にあたる。当時、現世に悲観的な末法思想が大流行し、多くの人々が現世をあきらめて来世で極楽往生を遂げようとする( )信仰にはしっていた。西方極楽浄土を支配する( )如来をまつり、「南無阿弥陀仏」と唱える( )を繰り返すこの信仰は、とりわけ現実逃避的で脆弱になっていた貴族の心をとらえ、頼通も深く帰依してこの年にわざわざ別荘を寺に造り替えたのである。しかも彼自身、父道長の没年(62歳)に達していた。自らの老いと末法の世の双方に直面していたのである。
おりしもこの年は末法の世の初年度にふさわしく、( )の役が陸奥国で発生。貴族たちが都で優雅な生活に浸り、浄土信仰に現を抜かしているうちに、政治の乱れた地方では戦乱の世が始まろうとしていた。その戦乱の巷からやがて貴族に取って代わる( )達が台頭してくる。中世がすぐそこまで訪れてきているのだ。この絶妙なタイミングをとらえて、無常な時の流れに「もののあわれ」を感じ取る日本の美意識と現世のはかなさを説く浄土教の教えとが溶け合い、華麗で繊細な芸術が満開の桜のごとく花開いたのである。
2.( )院鳳凰堂;1053年、完成。「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまえ」とうたわれたごとく、現世に極楽浄土を再現したかのような豪華絢爛で優美な阿弥陀堂建築。母屋は方形でその両側から翼廊が、後方からは尾廊が伸び、あたかも鳳凰が翼を広げたように見え、かつ母屋の棟の両端には銅製の鳳凰が飾られているため、後に「鳳凰堂」と呼ばれることになった。貴族の邸宅の様式であった
( )と似通い、阿弥陀堂の前には蓮池を中心とするいわゆる浄土庭園が広がっていて自然との一体感をかもし出す、開放的な構造(日本建築の特色の一つ)となっている。
また建物の随所に見られる実用性を無視し、美的効果のみをねらったかのような装飾性も日本的美意識の表れであろう。
3.( )如来坐像;鳳凰堂本尊で仏師( )作。丈六の坐像(像高約2m半)でそれまでの神秘的で近寄りがたい仏像の作風(弘仁・貞観時代の仏像の特色)とは異なり、彫りが浅く、均整のとれた温和な作風。いかにも人々の救済にあたる仏にふさわしい、柔和な容貌。まさに貴族好みの仏像で、定朝の作風は一世を風靡し、後の時代の模範ともなった(=定朝様式)。また全体的に落ち着き、調和のとれた優美な造形は日本的美意識の反映したものとされ、「和様」彫刻の完成品としても知られる。