これは、個人的なやりとりです。他意はありません。
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意地の悪いかっぱ堂。は、世に満ちたあらゆる言葉が、実は自分の内にあるのではないかと疑います。人と世界とをわけ隔てるかに見える「壁」それ自体が、一つの妄想なんじゃないかと。養老先生は「人間は脳の中に住んでいる」と言われたように思いますけれども、これは、人が認識し受け入れる世界のあり方は言葉を媒介とすることでしか成り立たないんじゃないか、という直感のようにも思われます。
多少言い換えるとすると、その「壁」とは、人の内に理性とも本能ともつかぬ「言葉以前」の何かが存在するということに対する信仰のようなものにも感じられます。人の内に言葉は無い、しかし言葉で無い何かはある、と。同時に、それは、何かを創造する方の物言いとして正しいのかな、とも。
ん?
でも、もし「何か」があるとして、それと世に満ちた言葉を切り取ることとは関係を持つことができるのでしょうか。できるとしたら、それは何によって? 言葉では示されない何かに、他でもない「その」言葉を切り取らせる衝動はどこからくるのか?
...それを「理性」や「本能」と名付けたら、収まりがいいでしょうか? でも、名付け、意味づけた瞬間から、それは言葉の内側にあって、内側でのみ生きる代物となりますけど。でもでも、それっておかしいことなのかな。「言葉」によってロジカルに、確実に選び取られた「言葉」では、芸術表現として成立しえないのだろうか。
「世界は人の内にある、言葉によって」なんてね。書いてみただけ。
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こらぁ、日持ちしない記事だなぁ。
もし消えちゃったら、そう判断したと思ってください。>各位