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この言葉は聖書中のある興味深い記述を思い起こさせます。それは古代イスラエルのダビデ王に関するものです。ダビデは,生まれたばかりの我が子が死にかけていたため悲嘆に暮れていました。子供が生きている間は深い悲しみに沈んでいましたが,子供が死ぬと直ちに職務に就き,いつもと同じ生活に戻りました。驚いた周囲の人々から尋ねられた時,ダビデはこう答えました。「子供がまだ生きている間,わたしは断食して泣いた。わたしはこう考えたのだ,『だれが知っているだろうか。主がわたくしに情けをかけ,子供が生きるようにしてくださるかどうかを』。だが,その子が死んだのであれば,どうして断食しなければならないのか。わたしにその子を連れ戻すことができるのか」―サムエル後 12:22,23,新国際訳。

遺族には亡くなった人を連れ戻すことができません。故人も,他の人が有意義な生活を送ることを望んだはずです。ですから,自分と共にいない人の影を追うような生活をいつまでも続けてはなりません。自分の主体性をはぐくみ,ダビデ王がしたように生活の営みを続けて行くのです。

サムエル第二12章22.23節
22 これに対して彼は言った,「子供がなお生きていた間は,わたしは確かに断食し,泣き続けた。それは,『エホバがわたしに恵みを示してくださり,子供が果たして生きるかどうかを知っている者がだれかいるだろうか』と思ったからだ。23 しかしもう死んでしまった以上,どうしてわたしは断食をするのか。わたしはあの子をもう一度連れ戻せるだろうか。わたしはあの子のところへ行こうとしているが,あの子はわたしのところに戻っては来ない」。