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3 そうです,エホバ神への清い崇拝を他のすべての形態の崇拝と異ならせている一つの点は,前者がこの種の愛を強調していることです。イエス・キリストが最大のおきてとして次の二つを挙げたのは正しいことでした。「第一は,『……あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめ,力をこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。第二はこうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。これらより大きなおきてはほかにありません」。(マルコ 12:29‐31)使徒パウロもコリント第一 13章で,同じように愛を強調しています。彼は愛が絶対に必要な第一の特質であることを力説した後,結論として,「しかし今,信仰,希望,愛,これら三つは残ります。しかし,このうち最大のものは愛です」と述べています。(コリント第一 13:13)イエスが,ご自分の追随者を見分けるしるしとなるのは愛であると述べたのは正しいことでした。―ヨハネ 13:35。

マルコ12章29節
29 イエスはこう答えられた。「第一は,『聞け,イスラエルよ,わたしたちの神エホバはただひとりのエホバであり,30 あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめ,力をこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。31 第二はこうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。これらより大きなおきてはほかにありません」。

コリント第一13章1~13節
13 たとえわたしが人間やみ使いの[いろいろな]ことばを話しても,愛がなければ,音を立てる[一片の]しんちゅうか,ただ鳴り響くシンバルとなっています。2 そして,たとえ預言[の賜物]を持ち,すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても,また,たとえ山を移すほどの全き信仰を持っていても,愛がなければ,何の価値もありません。3 そして,ほかの人たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても,また,自分の体を渡して自分を誇れるようにしたとしても,愛がなければ,わたしには何の益にもなりません。

4 愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,5 みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,6 不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。7 すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。

8 愛は決して絶えません。それに対し,預言[の賜物]があっても,それは廃され,異言があっても,それはやみ,知識があっても,それは廃されます。9 わたしたちの知識は部分的なものであり,預言も部分的なものだからです。10 全きものが到来すると,部分的なものは廃されるのです。11 わたしがみどりごであった時には,みどりごのように話し,みどりごのように考え,みどりごのように論じていました。しかし,大人となった今,みどりごの[時の]ことをやめたのです。12 現在わたしたちは金属の鏡でぼんやりした輪郭を見ていますが,その時には顔と顔を向かい合わせて[見るの]です。現在わたしが知っているのは部分的なことですが,その時には,自分が正確に知られているのと同じように,正確に知ることになります。13 しかし今,信仰,希望,愛,これら三つは残ります。しかし,このうち最大のものは愛です。

コリント第一13章13節
13 しかし今,信仰,希望,愛,これら三つは残ります。しかし,このうち最大のものは愛です。

ヨハネ13章35節
35 あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。

3 イエス・キリストとパウロはどのように愛を強調しましたか。