
4 1,900年余の昔,神の子,イエス・キリストが地上におられた当時,人びとは今日と同様,圧迫されていました。その窮境を見て取ったイエスは,解決策を提供しました。イエスがお与えになった解決策とは,自分たちの魂を元気づけるものを得るため,イエスのもとに来なさいという,すばらしい招待でした。イエスは言われました。「あなたがた,苦労し,かつ,重荷を負わされているものはみな,わたしのもとに来なさい。そうすれば,わたしはあなたがたを元気づけよう。あなたがたはわたしのくびきを負って,わたしの弟子になりなさい。わたしは気質が柔和で,心臓が謙そんだからである。そうすれば,あなたがは自分の魂を元気づけるものを見いだすであろう。わたしのくびきは,思いやりがあり,わたしの荷は軽いからである」。(マタイ 11:28‐30,新)この美しいことばの中に解決策があるのです。それにしても,このすばらしい招待はだれに差し伸べられたのですか。また,20世紀の現代のわたしたちにとって,このことばは何を意味しますか。
マタイ11章28~30節
28 すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。29 わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。30 わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです」。
4 苦労し,かつ,重荷を負わされている人びとのために,イエスはどんな解決策を提供されましたか。
5 その招待は,苦労し,かつ,重荷を負わされている人すべてに差し伸べられています。イエスの時代には,それは特に,モーセの律法を守る義務のある人びとにかかわるものでした。使徒行伝 15章10節で,クリスチャン使徒ペテロは,エルサレムの年長者たちに話しかけて,こう言いました。「何ぞ神を試みて弟子たちの頸に我らの先祖も我らも負ひ能はざりし軛をかけんとするか」。ペテロは,モーセの律法のことを,負いがたい重荷を課すくびきと呼びました。それも,律法そのものがしょいがたいからではありません。それどころか,律法は,「聖にして正しく,かつ善」でした。(ロマ 7:12)しかし,不完全な人間は,その完全な規準にかなうことができないため,人間にとって負担となったのです。キリストは,そうした律法の義務のくびきにつながれている人すべてを,自由にされました。―ガラテヤ 3:13。
使徒15章10節
10 それですから,どうして今,父祖もわたしたちも負うことのできなかったくびきを弟子たちの首に課して,神を試したりするのですか。
ローマ7章12節
12 それゆえに,律法そのものは聖なるものであって,おきては聖にして義にかない,良いものです。
ガラテア3章13節
13 キリストはわたしたちの代わりにのろわれたものとなり,こうしてわたしたちを律法ののろいから買い取って釈放してくださったのです。「杭に掛けられる者は皆のろわれた者である」と書かれているからです。
5(イ)イエスの招待は,当時のだれに差し伸べられましたか。(ロ)モーセの律法はそれ自体,重荷でしたか。
6 同時に,「あなたがた,苦労し,かつ,重荷を負わされているものはみな,わたしのもとに来なさい」という,すばらしい招待は,伝統を固守する,当時のむなしい諸体制のもとで重荷を負わされていた人びとにも差し伸べられました。そうした伝統を築いた律法学者やパリサイ人について,イエスは言われました。「重き荷を括りて人の肩にのせ,己は指にて之を動かさんともせず」。(マタイ 23:4。マルコ 7:2‐5)パリサイ人は,さほど重要でない,詳細な事がらに極端な注意を払うあまり,公正,慈悲,忠実などの,より重要な事がらを完全に見過ごしました。人をとりこにする,そうした,むなしい崇拝にすぎない伝統から,イエスは人びとを自由にしました。―マタイ 15:1‐9。
マタイ23章4節
4 重い荷をくくって人の肩に載せますが,自分ではそれを指で動かそうともしません。
マルコ7章2~5節
2 そして,彼の弟子のある者たちが汚れた手,つまり洗ってない[手]で食事をするのを見た時― 3 というのは,パリサイ人とすべてのユダヤ人は,昔の人たちからの伝統を堅く守って,手をひじまで洗わなければ食事をせず,4 市場から戻ったときには,水を振り掛けて身を清めなければ食事をしないからである。そして,杯と水差しと銅器のバプテスマなど,彼らが受け継いで堅く守る伝統はほかにもたくさんあったのである― 5 それで,これらパリサイ人と書士たちは彼にこう尋ねた。「あなたの弟子たちが昔の人たちからの伝統にしたがって行動せず,汚れた手で食事を取るのはどうしてですか」。
マタイ15章1~9節
15 その時,エルサレムからパリサイ人と書士たちがイエスのところに来て,こう言った。2 「あなたの弟子が昔の人々からの伝統を踏み越えているのはどうしてですか。たとえば,食事をしようとするときに,彼らは手を洗いません」。
3 [イエス]は答えて言われた,「あなた方も自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えているのはどうしてですか。4 たとえば,神は,『あなたの父と母を敬いなさい』,そして,『父や母をののしる者は死に至らせなさい』と言われました。5 ところがあなた方は,『自分の父や母に向かって,「わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみな神に献納された供え物なのです」と言うのがだれであっても,6 その者は自分の父を少しも敬ってはならない』と言います。こうしてあなた方は,自分たちの伝統のゆえに神の言葉を無にしています。7 偽善者よ,イザヤはあなた方について適切に預言して言いました,8 『この民は唇でわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。9 彼らがわたしを崇拝しつづけるのは無駄なことである。人間の命令を教理として教えるからである』」。
7 その招待はまた,カイザルの支配と課税の重圧にあえぐ人びとにも,そして,「牧ふ者なき羊のごとく悩み,且たふるる」ままにされた人びとにも差し伸べられました。(マタイ 9:36; 22:17‐21)イエスの解決策を用いれば,そうした人びとも元気づけられることができたのです。
マタイ9章36節
36 また,群衆を見て哀れみをお感じになった。彼らが,羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていたからである。
マタイ22章17~21節
17 それで,どうお考えになるか,わたしどもにお話しください。カエサルに人頭税を払うことはよろしいでしょうか,よろしくないでしょうか」。18 しかしイエスは,彼らの邪悪さを知って,こう言われた。「なぜあなた方はわたしを試すのですか,偽善者たちよ。19 人頭税の硬貨をわたしに見せなさい」。彼らはデナリを[イエス]のところに持って来た。20 そこで彼らにこう言われた。「これはだれの像と銘刻ですか」。21 彼らは,「カエサルのです」と言った。そこで[イエス]は言われた,「それでは,カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」。
8 イエスはまた,罪の重荷のゆえに良心のかしゃくを覚えている人びとにも話しかけられました。罪をならわしにすれば,堕落と腐敗のきわみに達し,最悪の貧窮に陥ります。(マタイ 6:23)そのような人も,「わたしのもとに来なさい」とのイエスの招待に応ずれば,その重荷から自由にされたのです。
マタイ6章23節
23 しかし,目がよこしまであれば,あなたの体全体は暗いでしょう。あなたのうちにある光が実際のところ闇であれば,その闇はどんなにかひどいことでしょう。
6‐8 ほかにイエスの招待はだれに差し伸べられましたか。
イエスの招待は、
あらゆる人に向けられました。
だれでも、イエスに近づくなら、
さわやかにされるのです。
では、どうしてそのさわやかな人を
殺してしまったのでしょうか?
それは、イエスの血を通して、
わたしたちが救われるためでした。
イエスは舞の罪のゆえに、
そして、あなたの不完全さのゆえに死んでくださったのです。
もしも、イエスがいなければ
わたしたちには、神との贖いが必要でした。
富んだ人は、牛や羊、
貧乏な人は、小鳥でした。
舞のような罪びとは、
毎日捧げなければならなくなります。
それを、自由にしてくださったのが、
イエスです。
イエスの招待に応じてみませんか?