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全地のための休息

『そのことと,より良い時代に対するわたしたちの希望との間に今日どんな関係があるのだろうか』と問う人がいるかもしれませんが,地を治める王として神により任命された方であるイエス・キリストは,確かに関係があると,言われました。ところで,そうした救済にあずかるには昔のイスラエル人の生活様式に戻らねばならない,つまり現代の発明品あるいは現代文明の所産などのない“軽装馬車時代”の社会にぜひとも帰らねばならないということをイエスは示唆したのではありません。むしろ,当時の安息日はより大きな,より恒久的な事がらを絵画的に表現したものでした。

安息日に関する律法は重荷として人間に課せられた単なる儀礼的な事がらではないことをイエスは人びとに指摘してこう言われました。「安息日は人のために存在するようになったのであり,人が安息日のために存在するようになったのではありません」。次いで,非常に重要な発言をして,こう言われました。「ゆえに,人の子は安息日の主でもあるのです」―マルコ 2:27,28。

マルコ2章27.28節
27 それから[イエス]はさらにこう言われた。「安息日は人のために存在するようになったのであり,人が安息日のために[存在するようになった]のではありません。28 ゆえに,人の子は安息日の主でもあるのです」。

より良い時代を多少でも本当に享受するには,健康面でもより改善された状態が確かに必要だったでしょう。では,イエスがユダヤ人の安息日にたいへん驚くべき癒しのわざを数多く行なって,ご自分が「安息日の主」であることを証明された点に注目してください。ユダヤ人の間の指導者たちは安息日の真の目的を理解していなかったため,その休息の日に行なわれた,そうした憐みのわざに激しく反対しました。とはいえ,イエスはご自分の王国が千年間地を支配する,より大いなる休息つまり安息の「日」に起こる事がらをあらかじめ示すために,安息日に数多くの癒しを行なわれました。

さて,イエスは人類のためにご自分を犠牲としてささげることによって,文字どおりの毎週の安息日や安息の年が廃止されるようになることをご存じでした。そうした安息は,将来のより良い事がらの預言的な「影」でした。(エフェソス 2:15。コロサイ 2:13,14)したがって,イエスが行なわれた癒しや復活は一時的なもので,今日のわたしたちに励みを与えるものとなりました。したがって,わたしたちは,王国による安息期間中に起きる完全な永久の成就を待ち望めます。このことについて使徒パウロはクリスチャンに向かってこう言いました。「祭りや……安息日に関して,だれからも裁かれるべきではありません。そうした事はきたるべきものの影であり,その実体はキリストに属しているのです」―コロサイ 2:16,17。

エフェソス2章15節
15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。

コロサイ2章13.14節
13 さらに,あなた方は自分の罪過と肉に割礼のないこととによって死んでいましたが,[神]はそのあなた方を彼と共に生かしてくださいました。そのご親切によってわたしたちのすべての罪過を許し,14 わたしたちを責める手書きの文書を塗り消してくださったのです。それは[数々の]定めから成り,わたしたちに敵対するものでした。そして[神]は,それを苦しみの杭にくぎづけにして取りのけてくださいました。

コロサイ2章16.17節
16 ですからあなた方は,食べることや飲むことで,また祭りや新月の習わしや安息日に関して,だれからも裁かれるべきではありません。17 それらの事は来たるべきものの影であって,その実体はキリストに属しているのです。

イエスによって、わたしたちは律法からとかれ、
毎週の安息日や安息の年が廃止されました。
イエスがいらっしゃらなかったら、
わたしの自分の毎日の罪のために、
捧げものをしなければならず、
そのために何匹もの動物を飼う必要があったでしょう。
こうして、神はイエスを通して自由にしてくださったのです。
なんと、喜ばしいことではないでしょうか?