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愛によって動かされる

22 次のようなたとえを用いて,この点を考えてみましょう。荷車は輸送手段の一つですが,推進力あるいは動力装置は備えていません。馬や牛その他の動力源を用いて,引っぱるか押すかしなければ,用をなしません。動力がなければ,荷車は無益な装置と化してしまいます。クリスチャンとして,わたしたちは,エホバに対する愛に基づく専心に動かされねばなりません。そうした動機の有無は,神の意志を行ないたいという欲求があるかないかによって,すぐわかります。わたしたちが従順の道を歩きはじめるには,愛の気持ちから引っぱってもらったり,押してもらったりすることが多少必要かもしれません。しかし,クリスチャン奉仕者が,聖書研究の集会に出席したり,クリスチャン宣教のいずれかの分野に従事したりする際,いつもだれかに引っぱってもらうか,押してもらうかしなければならないというのは,不合理なことです。わたしたちは内的な欲求に動かされねばなりません。わたしたちの願いは,エホバに仕えることであり,それがわたしたちの命となるのです。従順が要求される場合,いらだつかわりに,与えられる導きに感謝すれば,わたしたちは天の父にいっそう近づくことになるでしょう。

23 詩篇 112篇1節の次のことばを思い起こしてください。「エホバを畏れてそのもろもろの誡命をいたく喜ぶものはさいはひなり」。そのような人は,不活発もしくは無関心な人とはならず,むしろ,どんな状況の下でも永遠にエホバに仕えることを決意する人となるでしょう。こうした動機づけは,人間がいくら外部から圧力を加えたり,いろいろ誘ってみたりしたところで,その人間からもたらされるものではなく,それは,神のことばを通して,また,神の霊が働くとき,エホバから与えられるものなのです。

詩篇112編1節
112 あなた方はヤハを賛美せよ!
? [アーレフ]
エホバを恐れる人は幸いである。
? [ベート]
彼はそのおきてを大いに喜んだ。

22,23 従順に関する正しい動機はなんですか。

24 そうした道の益は数え切れません。その道を歩む人は,周囲の人々の近視眼的な好ききらいの感情に左右されて,聖書で訓練された,自分の真の個性をゆがめることをせず,ありのままの自分でいることができます。その結果,諸会衆は,おおらかで自然な自分でいることをためらわない,気持ちの良い性格を持った,いろいろな人々によって,人間的に色彩豊かなものとなっています。幼い子どもたちが楽しくしている一つの理由は,子どもたちは人がどう思うかを気にしないことです。イエスは子どもたちを愛しただけでなく,子どもたちの態度をも愛しておられました。マタイ伝 19章13,14節はこう報じています。「こゝに人々イエスの手をおきて祈り給はんことを望みて,幼児らを連れ来りしに,弟子たち禁めたれば,イエス言ひたまふ『幼児らを許せ,我に来るをとゞむな,天国はかくのごとき者の国なり』」。

マタイ19章13.14節
13 その時,幼子たちが彼のところに連れて来られた。手をその上に置いて祈りをしていただくためであった。ところが弟子たちは彼らをたしなめた。14 しかしイエスはこう言われた。「幼子たちを構わずにおき,わたしのところに来ることを妨げるのをやめなさい。天の王国はこのような者たちのものだからです」。

25 今日,地上のさまざまな場所に住む人々に見られる多様性を考えてみてください。人はそれぞれ異なります。習慣や風習も違います。物事のやり方,また,物事をする速度も異なります。にもかかわらず,エホバは,そうした人々が真理を学んで,ご自分に仕えるのを許しておられます。あなたの兄弟たちに見られる多様性を,なぜ人間製の規則で葬り去ってしまうのですか。人間に対するそうした屈従の別の証拠は,世の人々の人気の的となっている,ある種の流行を一般大衆が追うことです。そうした流行は,別のものが登場すると,すたれてしまいます。現在の体制内の商業的な要素は,人々の行動を集団化し,個性を喪失させる能力をたよりに,ばく大な収益を上げているのです。

24,25 クリスチャンが神に従順を示し,人間の支配から解放されているなら,どんな益が得られますか。

そうですね。
エホバは、アダムとエバが反逆したとき、
これを滅ぼしてロボットのように
自由意志のない人間に作り上げることもできたでしょう。
しかし、エホバはそうされませんでした。
そして、いうことを聞かないからといって、
永久に捨て去られることもされませんでした。
そうです。
エホバは、わたしたち一人一人の個性を
大切してくださり、
自由意志でエホバを支持されるように
作ってくださったのです。
なんと優しい神ではありませんか?