
「自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人の事にも目をとめなさい」と聖書は勧めています。(フィリピ 2:4)他の人に関心を示すのです。他の人と近付きになるために求められる,感情面での代価を払うことを惜しんではなりません。わたしたちが努力して築く関係は,かみそりの刃のように薄いものであってはなりません。
フィリピ2章4節
4 自分の益を図って自分の事だけに目を留めず,人の益を図って他の人の事にも[目を留め]なさい。
「それは口で言うほど易しくない」と,幾百万もの孤独な人は答えます。確かにその通りです。それには聖書の言う「思いやり」を培う必要があるのです。(ペテロ第一 3:8)この語の原語のギリシャ語は字義通りには「共に苦しむ」ことを意味します。それには他の人の経験にあずかることがかかわってきます。ですから,会話をしている時,次に何を言おうかと考えるのではなく,相手の話に誠実に耳を傾けてください。人の話している事柄に注意を集中するのです。その人の情緒を感じ取ることに努めてください。相手の見方から物事を見るように努めることです。
ペテロ第一3章8節
8 最後に,あなた方はみな同じ思いを持ち,思いやりを示し合い,兄弟の愛情を抱き,優しい同情心に富み,謙遜な思いを抱きなさい。
二,三の意味深い,しかし思いやりのある,例えば次のような質問ほど,良い会話がはずむのを助けるものはありません。「どちらからお越しですか」。「この辺りはいかがですか」。「気晴らしにどんなことをされていますか」。「趣味をお持ちですか」。その人がクリスチャンの仲間であれば,次の問いで大抵,話が軌道に乗ります。「クリスチャンになることに関心を持たれたのは,どのようにしてですか」。むろんのこと,相手がくつろげないほど立ち入ったり,無理に話をするのは避けねばなりません。
今度はあなたも同じことを尋ねられ,あなたが話す番になるでしょう。単におしゃべりをするだけでなく,気の合う仲になるための一歩を進めることになります。次に会う時,何か共通のものがあり,その人はもはや群衆の中の無意味な顔ではありません。あなたもその人にとって同様です。考えや経験を共にすることが始まったのです。
気まずい一瞬が時にあることは予期しなければなりません。聖書にも次のように書かれています。「わたしたちはだれでも,あらゆる仕方で間違いをする。しかし,自分は間違ったことを決して言わないと主張できる人は,自分を完全であるとみなすことができる」。(ヤコブ 3:2,フィリップス訳)ですから自分にも他の人にも完全さを期待することはできません。多くの場合,自然の気恥ずかしさがあります。純粋の友情を培うには時間および分かち合うことが必要です。それゆえ,二,三回軽い会話をしたからといって,このような関係が生まれることは期待できません。要点はこうです。他の人に関心を示してください。そうすればいつも付きまとっていた孤独感が次第に消えていくことに気づくでしょう。しかし知り合う人すべてが良い友達であると言えますか。
ヤコブ3章2節
2 わたしたちはみな何度もつまずくのです。言葉の点でつまずかない人がいれば,それは完全な人であり,全身を御することができます。
最近、自分から近づいて友達になっているかな?
確かに、友達の数は増えているよね。
でも、チャットやネットの友達ばかりだね。
リアルで外にあまり出ないから、
友達増えないんだな。
明日、集会に行ったら、
自分から、姉妹に近づいてみよう。
今度は、聞くことと注意を向けてみよう。
明日、クリスャンの集会にいけますように。
よい準備ができますように。