
どもる人は学校の教室,職場での会議,宗教上の会合などで聴衆を前にして質問に答えるよう求められたりすると,心配が高じて発作的にひどくどもる場合があります。南アフリカの15歳の吃音者ロサンは,ラジオのインタビューで,「とにかく黙っているほうがずっと楽だと思う時がありますか」と尋ねられました。少女はこう答えました。「例えば教室などで,答えたら本当に良い点が取れると思う正解が分かっていても,実際に話すのは無理だという気持ちになる場合が少なくありません」。
前述のラジオ番組で,シモンという実業家もインタビューを受けました。ロサンと同様,シモンも言語療法士の助けを得て改善できたものの,今なおひどくどもってしまう場合があります。それも聞き手の態度のために一層ひどくなることがあり,こう説明しています。「役員会に出席していて相当話さなければならないのに,話せなくて苦労しようものなら,テーブルの周りの人々は大変いらいらするものです」。
どもる人が抱く不安な気持ちと,内気な人が見知らぬ人に話しかける際に抱くかもしれない不安感とを混同してなりません。これまで2年間,エホバの証人の集会に出席してきたリサのことを考えてみてください。彼女は友達と気楽におしゃべりする時は大抵,かなり流暢に話せます。また,招かれなくても見知らぬ人に近づくことが必要な福音宣明の業にも熱心に参加しています。ところが,大勢の聞き手の前で話す段になると,どもる人の多くに普通見られる不安な気持ちを抱くのです。リサはこう説明しています。「集会でどうにか手を挙げて質問に答えるようなことさえめったにありません。とにかく答えるとすれば,せいぜい一言か,短い文だけです。ごくわずかかもしれませんが,それで精いっぱいなんです。いつも予習していますから,大抵,答えは頭に入っていて唇から出そうになるのですが,とにかく舌が言うことを聞かないのです」。
朗読しなければならなくなると,どもる人はもっとつらい思いをすることがあります。普通なら避けられる言葉を強いて使わざるを得ないからです。リサはこう続けます。「ある集会では,検討中の聖句の輪読を求められることがあります。そんな時,聖句をうまく読めるかどうか分からないため,私は不安な気持ちで座り,そわそわしながら自分の番を待ちます。読み取れるのですが,ある特定の語を発音できないことがあるのです。そういう場合は,ただそこを飛ばして読み続けます」。
どもる人を励まして朗読させる前に慎重に考える必要があることは明らかです。そういう“励まし”は,どもる人を一層つらい気持ちにさせかねません。むしろ,そのような人は最善の努力をしていることを温かく褒めてもらうに値します。
つらそうだね。
舞はどちらかというと、セミナーをやったり
するのが好きで
人前でも流暢に話せると思う。
でも、解離性障害がひどくなったとき、
声が出なくなった。
口を開く気力さえなかった。
口を開いても、発音できなかった。
失声だよね。
本当にいろんな病気の人がいるのね。
普段注解しない人が、注解したら、
進んでほめてあげれる人になりたいな。