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7 ロマ書 5章および6章を調べてみましょう。そこで使徒パウロは,従順の問題に注意を向けています。イスラエル民族に与えられ,長年,多くの人々によって守られてきた律法に対して従順を示しますか。それとも,人類が神に従順になるのを助ける備え,すなわち,キリスト・イエスを通して,エホバが設けてくださった,あがないの犠牲の取り決めにより可能となった,神からの過分の恵みに対して従順を示しますか。今日,すべての人は,神に従うか,それとも,現在の事物の体制に属する,不従順かつ不法な群衆とともに歩むか,いずれかの道を選ばねばなりません。それは単に,神が定められた古い律法契約に従うか,それとも新しい契約に従うかというだけの問題ではありません。神からの真理に従うかどうかの問題なのです。このことを明確に述べたロマ書 2章8‐11節の次のことばに注目してください。「徒党により真理に従はずして不義にしたがふ者には怒と憤恚とをもて報い給はん。すべて悪をおこなふ人には,ユダヤ人を始めギリシャ人にも患難と苦難とあり,すべて善をおこなふ人には,ユダヤ人を始めギリシャ人にも光栄と尊貴と平安とあらん。そは神には偏り視給ふことなければなり」。それにしても,人をエホバに対して従順にならせ,しかも,喜んでそうするように人を動かすものはなんですか。ロマ書 6章17節〔新〕の次のことばは,それを理解する手がかりを与えています。「されど神に感謝す,汝らはもと罪の僕なりしが,伝へられし教の範に〔心臓〕より従(へり)」。

ローマ5章1~21節
5 それゆえ,わたしたちは信仰の結果義と宣せられたのですから,わたしたちの主イエス・キリストを通して神との平和を楽しもうではありませんか。2 この[キリスト]を通して,わたしたちは,自分たちがいま立っているこの過分のご親切に,信仰によって近づくことができました。それで,神の栄光の希望をよりどころとして,歓喜しようではありませんか。3 それだけでなく,患難にあっても歓喜しましょう。患難が忍耐を生じさせることをわたしたちは知っているからです。4 かわって,忍耐は是認を受けた状態を,是認を受けた状態は希望を[生じさせ],5 その希望が失望に至ることはありません。神の愛が,わたしたちに与えられた聖霊を通して,わたしたちの心の中に注ぎ出されているからです。

6 実に,キリストは,わたしたちがまだ弱かった間に,不敬虔な者たちのため,定められた時に死んでくださったのです。7 義なる[人]のために死ぬ者はまずいません。もっとも,善良な[人]のためなら,あるいはだれかがあえて死ぬこともあるかもしれません。8 ところが神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです。9 それゆえ,わたしたちは[キリスト]の血によって今や義と宣せられたのですから,ましてこの方を通して憤りから救われるはずです。10 わたしたちが敵であった時にみ子の死を通して神と和解したのであれば,まして和解した今,[み子]の命によって救われるはずだからです。11 それだけではありません。わたしたちはさらに,わたしたちの主イエス・キリストを通し,神にあって歓喜しています。この[キリスト]を通して,わたしたちは今や和解を授かったのです。
12 それゆえ,一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が[入り],こうして死が,すべて[の人]が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がったのと同じように―。13 というのは,律法以前にも罪は世にあったからです。ただ,律法がなければだれも罪の責めを受けないのです。14 それにもかかわらず,死はアダムからモーセに至るまで,アダムの違犯と同様の罪をおかさなかった者に対しても王として支配しました。[アダム]は来たるべき方と類似していました。

15 しかし,賜物の場合は罪過の場合と異なっています。一人の人の罪過によって多くの者が死んだのであれば,神の過分のご親切と,一人の人イエス・キリストの過分のご親切を伴う[神]の無償の賜物とは,いよいよ多くの者に満ちあふれるからです。16 また,無償の賜物の場合は,罪をおかした一人[の人]を通して物事が作用した場合と異なっています。裁きは一つの罪過から有罪宣告に至りましたが,賜物は多くの罪過から義の宣言に至ったからです。17 というのは,一人[の人]の罪過により,その人を通して死が王として支配したのであれば,まして,過分のご親切と無償の賜物である義とを満ちあふれるほどに受ける者たちは,一人[の方]イエス・キリストを通し,命にあって王として支配するからです。

18 こうして,一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです。19 一人の人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと同じように,一人[の方]の従順を通して多くの者が義とされるのです。20 さて,律法は,罪過が満ちあふれるために入り込んで来ました。しかし,罪が満ちあふれたところでは,過分のご親切がなおいっそう満ちあふれました。21 何のためですか。罪が死を伴って王として支配したのと同じように,過分のご親切もまた,わたしたちの主イエス・キリストを通して来る永遠の命の見込みを伴いつつ,義によって王として支配するためでした。

ローマ6章1~23節
6 そこで,わたしたちは何と言えばよいでしょうか。過分のご親切が満ちあふれるために,罪のうちにとどまるべきですか。2 断じてそのようなことはないように! わたしたちは罪に関しては死んだのですから,どうしてなおもそのうちに生きつづけてよいでしょうか。3 それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです。4 ですから,彼の死へのバプテスマ[を受けたこと]によって,わたしたちは彼と共に葬られたのです。それは,キリストが父の栄光によって死人の中からよみがえらされたのと同じように,わたしたちも命の新たな状態の中を歩むためです。5 彼の死と似た様になって彼と結ばれたのであれば,わたしたちは必ず,彼の復活と[似た様になって]やはり[彼と結ばれる]のです。6 わたしたちが知るとおり,わたしたちの古い人格は[彼]と共に杭につけられたのであり,それは,罪深い体が無活動にされて,もはや罪に対する奴隷とはならないためです。7 死んだ者は[自分の]罪から放免されているのです。
8 さらに,キリストと共に死んだのであれば,彼と共に生きるようになることをもわたしたちは信じています。9 死人の中からよみがえらされた今,キリストはもはや死なないということを,わたしたちは知っているからです。死はもはや彼に対して主人ではありません。10 彼の遂げた死,それは罪に関してただ一度かぎり遂げた死であったからです。また,[いま]生きておられる[命],それは神に関して生きておられる[命]なのです。11 あなた方も同様です。自分を,罪に関してはまさしく死んだもの,しかし,神に関してはキリスト・イエスによって生きているものとみなしなさい。

12 それゆえ,罪があなた方の死ぬべき体の中で引き続き王として支配し,あなた方が[体]の欲望に従うということがあってはなりません。13 また,あなた方の肢体を引き続き不義の武器として罪に差し出してもなりません。むしろ,自分を死人の中から生き[返っ]たものとして神に差し出し,また自分の肢体を義の武器として神に[差し出し]なさい。14 律法のもとにではなく過分のご親切のもとにある以上,罪があなた方の主人となってはならないからです。

15 ではどうなりますか。わたしたちは,律法のもとにではなく過分のご親切のもとにいるがゆえに罪を犯すのですか。断じてそのようなことはないように! 16 あなた方は,自分を奴隷としてだれかに差し出してそれに従ってゆくなら,その者に従うがゆえにその奴隷となり,死の見込みを伴う罪の[奴隷]とも,あるいは義の見込みを伴う従順の[奴隷]ともなることを知らないのですか。17 しかし,神に感謝すべきことに,あなた方は罪の奴隷であったのに,その導き渡された教えの様式に心から従順になりました。18 そうです,あなた方は罪から自由にされ,そのゆえに義に対する奴隷となったのです。19 わたしは,あなた方の肉の弱さのために人間的な言い方をします。あなた方は,[かつて]自分の肢体を,不法の見込みを伴う不法と汚れに対する奴隷として差し出したように,今は自分の肢体を,神聖さの見込みを伴う義に対する奴隷として差し出しなさい。20 罪の奴隷であった時,あなた方は義については自由であったのです。
21 では,あなた方がその当時得ていたのはどんな実でしたか。それは,あなた方が今では恥じているものです。その終わりは死であるからです。22 しかし,今あなた方は罪から自由にされて神に対する奴隷となったので,神聖さの面で自分の実を得ており,その終わりは永遠の命です。23 罪の報いは死ですが,神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命だからです。

ローマ2章8~11節
8 一方,争いを好み,真理に従わないで不義に従う者に対しては,憤りと怒り,9 患難と苦難があります。それは,有害な事柄を行なうすべての人の魂に,ユダヤ人を初めとしてギリシャ人にも臨みます。10 しかし,栄光と誉れと平和が,良い事柄を行なうすべての人に,ユダヤ人を初めとしてギリシャ人にもあるのです。11 神に不公平はないからです。

ローマ6章17節
17 しかし,神に感謝すべきことに,あなた方は罪の奴隷であったのに,その導き渡された教えの様式に心から従順になりました。

7(イ)パウロが,ロマ書 2章8‐11節で論じている問題点を説明しなさい。(ロ)ロマ書 6章17節によると,敬けんな従順はどこから発しますか。

自分のことが少しわかってきました。
固い食物を自分の体調のあまりよくないときにとろうとしても、
咀嚼できず、ただ、こなしていくというだけで、
むらとまで達しないということです。
これでは何の意味もないですね。
でも、残念なことにまだわたしには完璧症が残っていて、
順番どおりに行っていかないと非常に気分が悪い。
従順とともに、柔軟さも身につけていきたいと思います。