
聖書を研究すると,聖書の中で言われている治療と,今日の信仰治療者が言う治療とには,決定的な違いのあることが分かります。例えば,イエスとその弟子たちは,治療に対して料金を課すようなことは決してしませんでした。「あなた方はただで受けたのです,ただで与えなさい」というのがイエスの教えでした。(マタイ 10:8)そのようにして彼らはエリシャの模範に従いました。エリシャにらい病を治してもらったナアマンという人は贈り物を持って来ましたが,エリシャはそれを受け取らなかったのです。(列王第二 5:1,14‐16)ですから,信仰治療者たちが治療代を請求するときは,この聖書的前例に反することになります。
マタイ10章8節
8 病気の人を治し,死んだ者をよみがえらせ,らい病人を清め,悪霊を追い出しなさい。あなた方はただで受けたのです,ただで与えなさい。
列王第二5章1節
5 さて,シリアの王の軍の長である,ナアマンという人は,その主の前で大いなる人となり,尊ばれていた。エホバは,彼によってシリアに救いを施されたからである。この人は,勇敢で,力のある人ではあったが,らい病人であった。
列王第二5章14~16節
14 そこで,彼は下って行って,[まことの]神の人の言葉の通りに七度ヨルダンに身を浸した。その後,彼の肉は小さな少年の肉のように元に戻り,彼は清くなった。
15 それで,彼は,その宿営[の者]すべてと共に,[まことの]神の人のところに戻り,来て,彼の前に立って言った,「ご覧ください,今や,私は確かに,イスラエルのほか,地のどこにも神はおられないことを知りました。それで今,どうか,この僕からの祝福の贈り物を受け取ってください」。16 ところが,彼は言った,「わたしがまさしくその前に立っているエホバは生きておられる。わたしは受け取りません」。それで,受け取るよう,彼をしきりに促したが,彼は拒み続けた。
また次の点も注目に値します。つまり聖書時代には,癒しは即座になされるか,あるいは短時間で成し遂げられたということです。使徒ペテロは,「母の胎を出た時から足のなえている」男の人を見た時,その人に向かって,「ナザレ人イエス・キリストの名において,歩きなさい!」と言いました。記録の示すところによると,「たちどころに,[足のなえた男]の足の裏とくるぶしの骨とは強固になった」のです。「そして彼は躍り上がって立ち,歩きはじめ」ました。(使徒 3:1‐8)使徒 5章15節と16節,14章8節から10節にある他の癒しの例についてもお読みください。
使徒3章1~8節
3 さて,ペテロとヨハネは第九時の祈りの時間のために神殿に上って行った。2 すると,母の胎[を出た時]から足のなえているある人が運ばれて行くところであった。人々は,“美し”と呼ばれる,神殿の戸口の近くに彼を日ごとに置いてやり,神殿に入る人たちから彼が憐れみの施しを求められるようにするのであった。3 ペテロとヨハネがちょうど神殿に入ろうとするのを見て,彼は憐れみの施しをもらいたいと頼みはじめた。4 しかし,ペテロはヨハネと共に彼を見つめて言った,「わたしたちを見なさい」。5 そこで彼は,何かもらえるものと期待してふたりにじっと注意を向けた。6 しかしペテロは言った,「銀や金はわたしにありませんが,わたしにあるもの,それをあなたに与えます。ナザレ人イエス・キリストの名において,歩きなさい!」7 そうして[ペテロ]は,彼の右手をつかんで起き上がらせた。たちどころに,彼の足の裏とくるぶしの骨とは強固になったのである。8 そして彼は躍り上がって立ち,歩きはじめた。そうして,歩いたり,躍ったり,神を賛美したりしながら,彼らと共に神殿の中に入った。
使徒15章15.16節
15 そのため,人々は病人を大通りにまで連れ出して来て,そこで小さな寝床や寝台に横たえ,ペテロがそばを通る際,せめてその影でも[病人]のだれかにかかるようにした。16 また,エルサレム周辺の都市の大勢の人が,病気の人や汚れた霊に悩まされる者たちを連れて集まって来た。そして,彼らはひとり残らず治されるのであった。
使徒14章8~10節
8 さて,ルステラに,母の胎[を出た時]から足がなえていて,両足の利かない人が座っていた。彼はそれまで一度も歩いたことがなかった。9 この人はパウロが話すのを聴いていたが,[パウロ]は彼をじっと見て,いやしを受けるだけの信仰があるのを見ると,10 大きな声で言った,「自分の足でまっすぐに立ちなさい」。すると,彼は躍り上がって歩きはじめたのである。
しかし,今日の信仰治療は,効果が分かるまでにはたいてい何日も,何週間も,時には何か月もかかります。また,信仰治療者たちが,機能性疾患,例えば目が見えない,体が麻痺する,耳が聞こえないといった,心理学上の原因によって生じる場合もある疾患に注意を集中する傾向も,注目に値します。外科医のポール・ブランドはこう観察しています。「器質上の事実―足がない,目がない,毛包がないなど―がいったん明白になると,奇跡はまず起きない」。しかしイエスは,しなびた手のように,明らかに器質性である欠陥を含め,「あらゆる疾患とあらゆる病」を癒されました。―マタイ 9:35。マルコ 3:3‐5。
マタイ9章35節
35 それからイエスはすべての都市や村を回る旅に出かけて,人々の会堂で教え,王国の良いたよりを宣べ伝え,あらゆる疾患とあらゆる病を治された。
マルコ3章3~5節
3 すると,[イエス]はその片手のなえた人にこう言われた。「立って,中央に[来なさい]」。4 次いで彼らにこう言われた。「安息日に許されているのは,善行をすることですか,悪行をすることですか。魂を救うことですか,殺すことですか」。しかし彼らは黙っていた。5 それで[イエス]は憤りを抱いて彼らを見回したのち,その心の無感覚さを深く憂えつつ,「あなたの手を伸ばしなさい」とその人に言われた。そこで彼が伸ばすと,その手は元どおりになったのである。
こんな時代に生まれたかったな。
でも、少しずつ平衡の取れた見方ができるようになって、
アルコールや薬物、買い物、男性のアディクションからも開放されている今、
まさにわたしの中で奇跡が起きているのかもしれない。
満ち足りて、感謝をすること。
簡単なことなのに、
どうして今までできなかったんだろう。
やっぱり、ブレーキが壊れていたんだね。