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失敗や誤解をどうするか

ところで,大きな失敗をしたときは,どうでしょうか。ダビデ王と同じような気持ちになるかもしれません。ダビデは,自分の誤りや罪のために,「一日じゅう悲しみを抱いて歩き回りました」。しかし,そのような気持ちになること自体,取り返しのつかないところまでは行っていないこと,そして許されない罪を犯してはいないことを示す証拠かもしれません。(詩編 38:3‐6,8)罪悪感があるということは,罪を犯した人が正直な心と正しい良心を持っていることを示しているかもしれません。だとすれば,この罪悪感をどうしたらよいでしょうか。では,あなたは神の許しを祈り求め,間違いを正すための措置を講じてきたでしょうか。(コリント第二 7:9‐11)もしそうなら,罪を繰り返すまいとの決意を抱きつつ,豊かに許してくださる方の憐れみに信仰を置くのです。(イザヤ 55:7)もし懲らしめを受けているなら,『正されるときに弱り果ててはなりません。エホバは自分の愛する者を懲らしめられるからです』。(ヘブライ 12:5,6)そのような矯正には,迷い出た羊を助けて立ち直らせるという目的があります。それは,その人の人間としての価値を損なうものではありません。

詩篇38編3~6節
3 あなたの糾弾のゆえに,わたしの肉には健全な所はありません。
わたしの罪のために,わたしの骨には平安はありません。

4 わたしのとががわたしの頭を越えたからです。
重い荷のように,それらはわたしにとって重すぎるのです。

5 わたしの愚かさのゆえに,
わたしの傷は悪臭を放ち,うみを持ちました。

6 わたしは度を失い,極度に身をかがめ,
一日じゅう悲しみを抱いて歩き回りました。

詩篇38編8節
8 わたしは感覚を失い,極度に打ちひしがれ,
心のうめきのために大声を上げました。

コリント第二7章9~11節
9 今は歓んでいます。単にあなた方が悲しんだからではなく,悲しんで悔い改めたからです。あなた方は敬虔な態度で悲しみました。こうしてあなた方は,何事においてもわたしたちのために損傷を被ることはありませんでした。10 敬虔な悲しみは,悔いのない救いに至る悔い改めを生じさせるのです。しかし,世の悲しみは死を生み出します。11 ご覧なさい,あなた方が敬虔な態度で悲しんだそのことが,何という真剣さをあなた方のうちに生み出したのでしょう。そうです,汚れをすすぐことを,そうです,憤りを,そうです,恐れを,そうです,切望を,そうです,熱心さを,そうです,悪を正すことを! この問題に関して,あなた方は自分が貞潔であることをあらゆる点で立証しました。

イザヤ55章7節
7 邪悪な者はその道を,害を加えようとする者はその考えを捨て,エホバのもとに帰れ。[神]はその者を憐れんでくださる。わたしたちの神のもとに[帰れ]。[神]は豊かに許してくださるからである。

ヘブライ12章5.6節
5 むしろ,あなた方を子と呼びかけているこの勧めをすっかり忘れてしまっています。「我が子よ,エホバからの懲らしめを軽く見てはならず,また[神]に正されるとき,弱り果ててもならない。6 エホバは自分の愛する者を懲らしめられるからである。事実,自分が子として迎える者をすべてむち打たれるのである」。

たとえ,自分の心に責められることがあるとしても,エホバがわたしたちを非難しておられると結論する必要はありません。「何か心に責められるようなことがあっても,それについて神のみ前で自分の心を安んじることができるでしょう。神はわたしたちの心より大きく,すべてのことを知っておられるからです」。(ヨハネ第一 3:20)エホバは,わたしたちの罪や失敗だけをご覧になるのではありません。情状酌量の余地がある状況や,わたしたちの生き方全体,動機や意図をご存じなのです。神はそれだけ多くのことを知っておられるので,ダビデの祈りをお聞きになったように,許しを求めるわたしたちの真剣な祈りを思いやり深く聞くことがおできになります。

ヨハネ第一3章20節
20 何か心に責められるようなことがあっても,それについて[神]のみ前で自分の心を安んじることができるでしょう。神はわたしたちの心より大きく,すべてのことを知っておられるからです。

他の人についての誤解や,人からの称賛を得ることに対する過度の関心なども,自信をなくしたり,場合によっては,のけ者にされていると感じたりする要因になります。仲間のクリスチャンも不完全なので,あなたに対して無神経に思える話し方や,思いやりがないように思える話し方をするかもしれません。しかし,その言葉によって自分がどんな気持ちになっているのか,当人に告げることによって,誤解が晴れる場合も少なくありません。(マタイ 5:23,24と比較してください。)またソロモンは,「人々が話すかもしれないすべての言葉に心を向けてはならない」と助言しています。なぜでしょうか。「あなたの心は,あなた自身も幾度となく他の者たちの上に災いを呼び求めたことを知っているからである」と答えています。(伝道の書 7:21,22)自分自身に関して,あるいは他の不完全な人との人間関係に関して,完全さを期待してはなりません。そうするのは非現実的なことです。他の人のことはすぐに許して忍びます。―コロサイ 3:13。

マタイ5章23.24節
23 「それで,供え物を祭壇に持って来て,兄弟が自分に対して何か反感を抱いていることをそこで思い出したなら,24 あなたの供え物をそこ,祭壇の前に残しておいて,出かけて行きなさい。まず自分の兄弟と和睦し,それから,戻って来たときに,あなたの供え物をささげなさい。

伝道の書7章21.22節
21 また,人々が話すかもしれないすべての言葉に心を向けてはならない。あなたの僕があなたの上に災いを呼び求めているのを聞かないためである。22 あなたの心は,あなた自身も幾度となく他の者たちの上に災いを呼び求めたことを知っているからである。

コロサイ3章13節
13 だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなく許し合いなさい。エホバが惜しみなく許してくださったように,あなた方もそのようにしなさい。

それに,人の真価は,おもに他の人から愛されているかどうかで測られるものではありません。キリストは『取るに足りない者とみなされ』,『他の人の見地からは』非常に低く『値積もりされました』。(イザヤ 53:3。ゼカリヤ 11:13)しかしだからといって,イエスの実際の価値や神からの評価が変わったでしょうか。そのようなことはありませんでした。たとえ,わたしたちがイエスのように完全だったとしても,すべての人を喜ばせることは不可能なのです。

イザヤ53章3節
3 彼はさげすまれ,人々に避けられ,痛みと病を親しく知ることとに定められた人であった。そして,わたしたちから顔を覆い隠すことがなされているかのようであった。彼はさげすまれ,わたしたちは彼を取るに足りない者とみなした。

ゼカリヤ11章13節
13 するとエホバはわたしにこう言われた。「それを宝物庫に投げ入れよ―彼らの見地でわたしが値積もりされたその立派な価を」。そこでわたしはその銀三十枚を取って,エホバの家の宝物庫に投げ込んだ。

自分が罪を犯したときは、
しっかり悔い改めをし、正される間忍耐を示し、
人の評判を過度に心配しない。
ということですね。
元気がいいときは、普通になるほどと思えることが、
どうして、うつになると
自分をめったざしにするのかな?
もう、すでに夢されている昔のことまで引っ張り出して、
自分は価値がないと判断しますよね。
そんなときは、素直に祈るしかないのかな?
平衡の取れた見方ができますように。
自分の裁き主になりませんように。