
イエスの行なわれた癒しは,“心霊手術”や「霊のうちに殺された状態」などとは無縁でした。癒しを行なう前に感情的な説教をされることもありませんでした。イエスのなさったことは多くの場合,少しも形式ばらないものでした。イエスが病人に触れられるか,病人がイエスに触るか,時にはイエスが病気に悩んでいる人に単に語り掛けるだけでした。それによって,人々は癒されたのです。―マタイ 8:14,15。ルカ 8:43‐48; 17:12‐19。
マタイ8章14.15節
14 それからイエスは,ペテロの家に入った際,そのしゅうとめが伏せっており,熱病にかかっているのをご覧になった。15 それで彼女の手にお触りになった。すると熱は引き,彼女は起き上がって[イエス]に仕えはじめた。
ルカ8章43~48節
43 そこへ,十二年のあいだ血の流出を患い,だれからも治してもらえないでいたひとりの女が,44 後ろから近づいて来て,彼の外衣の房べりに触った。すると,彼女の血の流出はたちどころに止まったのである。45 それでイエスは言われた,「わたしに触ったのはだれですか」。みんながそれを否定していた時に,ペテロがこう言った。「先生,群衆があなたを取り囲んで,押し寄せて来るのです」。46 それでもイエスは言われた,「だれかがわたしに触りました。わたしは,力が自分から出て行くのが分かったのです」。47 女は,気づかれずにはすまなかったのを見て,おののきながらやって来た。そして,彼の前にひれ伏し,自分が彼に触った理由,また自分がいかにたちどころにいやされたかを,そこにいた民すべての前で打ち明けた。48 しかし[イエス]は彼女にこう言われた。「娘よ,あなたの信仰があなたをよくならせました。平安のうちに行きなさい」。
ルカ17章12~19節
12 そして,ある村に入って行かれる際に,十人のらい病の人が彼に出会ったが,彼らは遠く離れたところで立ち上がり,13 声を上げてこう言った。「イエスよ,先生,わたしたちに憐れみをおかけください!」14 それで,彼らを見かけた時,[イエス]はこう言われた。「行って,自分を祭司たちに見せなさい」。すると,出かけて行く途中で,彼らは清められたのである。15 そのうちの一人は,自分がいやされたのを見て,大声で神の栄光をたたえながら戻って来た。16 そして,[イエス]の足もとにうつ伏して感謝した。しかも,それはサマリア人であった。17 イエスは答えて言われた,「十人が清められたのではありませんでしたか。では,ほかの九人はどこにいるのですか。18 神に栄光を帰するために戻って来たのは,この他国の人のほかにはだれもいなかったのですか」。19 そして,その人にこう言われた。「立って,出かけて行きなさい。あなたの信仰があなたをよくならせたのです」。
イエスの行なわれた癒しは心身相関作用によるものではありませんでした。なえた手をそうした方法で癒すことはできませんが,イエスはそのような疾患も治されました。イエスは,「あらゆる疾患とあらゆる病」を治すことがおできになりました。また,死者をよみがえらせることもなさいました。(マタイ 4:23。ルカ 6:6‐11; 8:49‐56)名ばかりのほんのわずかな回復しか見られないとか,それが失敗に終わるといったことはありませんでした。イエスの癒しに関しては,「失望させられた」とか「だまされた」といった言葉は聞かれませんでした。敵対者でさえそれが実際に起きたことを認めていました。(ヨハネ 11:47,48)その当時と今日とでは,どうしてそうした違いがあるのでしょうか。
マタイ4章23節
23 それから[イエス]はガリラヤの全土をあまねく巡り,諸会堂で教え,王国の良いたよりを宣べ伝え,民の中のあらゆる疾患とあらゆる病を治された。
ルカ6章6~11節
6 別の安息日のこと,[イエス]は会堂の中に入って教えはじめられた。すると,そこには右手のなえた人が来ていた。7 そこで,書士とパリサイ人たちは,彼が安息日に[病人を]治すかどうかを見ようとして,じっと見守っていた。彼を訴えるすべを何か見いだそうとしてであった。8 しかし[イエス]は,彼らの論議を知っていたにもかかわらず,片手のなえた人に,「起き上がって,中央に立ちなさい」と言われた。それで彼は身を起こして,そこに立った。9 それからイエスは彼らに言われた,「あなた方に尋ねますが,安息日に許されているのは,善を行なうことですか,危害を加えることですか。魂を救うことですか,滅ぼすことですか」。10 そして,彼らすべてを見回してから,その人にこう言われた。「あなたの手を伸ばしなさい」。彼がそのとおりにすると,その手は元どおりになったのである。11 ところが,彼らは狂わんばかりに怒り,イエスに対して何を行なおうかと話し合いをはじめた。
ルカ8章49~56節
49 [イエス]がまだ話しておられるうちに,会堂の主宰役員の代理者が来て,「娘さんは亡くなられました。もう師を煩わせてはなりません」と言った。50 これを聞いて,イエスは彼にお答えになった,「恐れることはありません。ただ信仰を示しなさい。そうすれば,彼女は救われます」。51 その家に着くと,[イエス]は,ペテロ,ヨハネ,ヤコブおよび少女の父と母のほかは,だれも一緒に中に入ることをお許しにならなかった。52 しかし,人々はみな泣き,彼女のことで身を打ちたたいて悲しんでいた。それで[イエス]は言われた,「泣かなくてもよい。彼女は死んだのではない,眠っているのです」。53 すると,人々は彼のことをあざ笑いだした。彼女がすでに死んだことを知っていたからである。54 しかし[イエス]は彼女の手を取って呼びかけ,「少女よ,起きなさい!」と言われた。55 すると,彼女の霊は戻り,彼女はたちどころに起き上がったのである。それから[イエス]は,何か食べ物を与えるようにとお命じになった。56 そこで,彼女の親たちは我を忘れるほどになった。しかし[イエス]は,起きた事柄についてだれにも話さないようにと彼らに指示された。
ヨハネ11章47.48節
47 そのため,祭司長とパリサイ人たちはサンヘドリンを召集して,こう言いはじめた。「この人が多くのしるしを行なうのだが,我々はどうすべきだろうか。48 彼をこのままほっておけば,みんなが彼に信仰を持つだろう。そして,ローマ人たちがやって来て,我々の場所も国民も奪い去ってしまうだろう」。
イエスの時代にあって、まったき信仰を示すことができたら、
わたしの病気は癒されていただろうに。
今の癒しとどうして、こうも違うのだろうか。
不思議だよね。
でも、癒されても、お礼にも来なかった例から考えると、
病気が治っても、感謝がかけたままなのかな?
どっちがいいかな?
病気のままでいるのと、
感謝してすごすのと、
わたしは、後者を選びたい。
だって、幸せだもの。