
自責の念が建設的な反応となる場合もあります。例えば,危険な地域を独り歩きして強盗に襲われるような場合,その人は自らそのような状況に身を置いたことに自責の念を感じ,心を改めてこれからは同じような問題を避けようと決意するかもしれません。しかし,人によってはそれだけでは済まず,『自分は結局,何をしても面倒を起こす不注意な人間なんだ』と言って,自分の性分を責めることもあります。このような自責の念は性格をゆがめ,自尊心を弱めます。
32歳になるマリアは,そのような自滅を招く自責の念を抱いてしまいました。マリアは,ある誤解がもとで姉に対して半年間も憤りを抱いていました。ある晩マリアは,電話で姉を激しく非難しました。母親はマリアのしたことを知ってマリアに電話をかけ,厳しく叱りました。
マリアは,「母親に対して腹が立ちましたけれど,それよりも自分自身に嫌気がさしました。自分がどんなに姉を傷つけていたか分かったからです」と説明しました。そのすぐ後でマリアは,行儀の悪いことをしていた9歳の息子を大声で叱りつけました。非常にびっくりしたその子は,後でマリアに,「お母さんの声といったら,僕は殺されるんじゃないかと思ったよ」と言いました。
マリアはがく然としました。こう報告しています。「自分は恐ろしい人間のような気がしました。『何一つまともにできない』と思いました。それしか考えることができませんでした。実際,その時からひどい抑うつ状態に落ち込んでゆきました」。マリアの自責の念は有害なものとなりました。
そうすると,重症うつ病にかかっている人はみな自尊心が弱いということでしょうか。もちろん,そうではありません。原因は複雑で様々です。結果が,聖書の言う「心の痛み」であるときでも,その原因としては,わだかまっている怒りや恨み,実際のもしくは誇張された罪悪感,他の人との未解決の不和などいろいろな感情があります。(箴言 15:13)そうした感情はどれもみな,打ちひしがれた霊,もしくはうつ病につながる場合があります。
セアラは,自分の考え方が少なからず自分のうつ病の根本的な原因になっていると知って,最初はがく然としました。「でも,それ以来少し気が楽になりました。考え方が原因なら,それを直せば病気も治ると思ったからです」と,セアラは打ち明けました。彼女はそう考えてうれしくなったと語り,こう説明しました。「ある事柄についてそれまでの考え方を変えたとき,これで自分の生活もこれからは変わるのだわ,と思いました」。
セアラは必要な変化を遂げ,抑うつ状態はなくなりました。マリア,マーガレット,そしてエリザベスも同じように,闘いに勝ちました。それらの人はどのような変化を遂げたのでしょうか。
箴言15章13節
13 喜びに満ちた心は顔色をよくするが,心の痛みのゆえに打ちひしがれた霊がある。
エモーションズ・アノニマスという自助グループがある。
そこで覚えたことは、感情そのものにはよしあしがなく、
それをどう表現するかにかかっているということだ。
すべての悪感情は、ないものとしてきたわたしにとって
うつがひどいときの悲しいんだか、怒っているんだか、
泣きたいんだか、不安なんだかわけのわからない状態になったとき、
自助グループや、友達との会話、掲示板、ヤフーでのチャットは
自分の感情を小出しにし、自分が本当は何を感じていたのかが、
少しずつ見えてきたとき、自分の不完全さを受け入れられるようになった。
今でも、まだ自分と折り合いがつけられないことが
たびたびあるが、不快な感情をそのまま何もなかったことにするのではなく、
相手と話し合うことによって、少しずつ
よくなってきていると思う。
人間関係は一生勉強だよね。
だって、自分の状態だって毎日違うのに、
家族や他人はもっと違うよね。
いろんな花がある。
いろんな木がある。
それでいいんだよね。