墓石職人のブログ

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(以下の文章は、16歳の時のぼくの直筆日記より転載したものです。ぼくはあまり漢字が書けないので、本来漢字で書いたほうが読みやすい箇所も平仮名で書いてあったり、誤字も多かったりで読みづらいですが、そのまま転載します。個人名などはイニシャル表記されています。()内は現在のぼくが記した註解です。)


2002年8月12日(月)
今日はHと、Hの学校の友達とボーリングに行った。(Hは小学校からの同級生。高校は別。彼は偏差値の低い男子校に進学したが、たしかこの時点で童貞ではなかったはず。ちなみにHの学校は強姦事件を起こした生徒がいて、校則で異性との接触を禁じられていたレベル)みんなカーブをかけてボールを投げてたりしてうまかった。チームに別れて、負けたほうがジュースをおごることになっていて、ぼくのチームは負けた。だけどボーリングがうまくてもどうしようもないと思う。プロになれるほどうまいわけでもなければ意味はない。そのあと、バーミヤンでごはんを食べたけど、お金がなかったのでHの友達たちにおごってもらった。みんな夏休みに短期のバイトをしてる人が多くて、金を持っている。(この時点で乞食精神が出てますね…)会話は女子の話が多くてげんなりしたけど、全体的には楽しかった。Hから聞いたのはKがバイト先の店長と付き合っていて妊娠したということ。とくにどうでもいいが、高ニで妊娠する奴なんかろくでもないし子供の将来も暗いものだろう。自分が悪いのだ。(Kは中学時代の同級生。学年で50番目くらいの顔面レベルだったはずだが、たぶん、この時のぼくは同級生が妊娠したという事実にかなりショックを受けていたはずで、しかし日記では興味ないふりをしている)そもそも大きく年が離れた男と付きあう女というのは、全員ブスばなりで、同世代の男には相手されないから、若さという武器だけで年上の男と付き合うんだと思う。貿易のようなものなのだ。(ひどい偏見ですね。貿易の例えもよくわからないし…もちろん今はそんなこと思ってませんよ!念の為!)

2002年8月17日(土)
気まずいがバイト先に給料をもらいに行く。(ぼくは喫茶店のアルバイトを一ヶ月も経たずにバックレてやめている)Sに「ほんまに迷惑かけたんや、わかっとるんか」などとイヤミを言われたが、金さえもらえればそれでいい。(スカしてますね…)そもそもSがやったことといえば、オレへの説教くらいで、こいつには恩も義理もないしこっちは金目当てでバイトしてるわけで、労働とその対価だけがオレとバイト先の関係性なのである。とうとつにやめたところで何も問題はないはずである。(意味不明な理屈ですね。あの時の方々、申し訳ありません!)
Nくんの家に行くとちゅう、電車の駅で駅員さんに怒ってるババアを見かけた。ぼくは思うのだが、ああいうババアはとにかく自分しか見えておらず、まわりのことなどいっさい考えてないのだ。すこしだけ聞こえてきた会話からさっするに子供が関係しているようだ。子供がからむとババアどもはヒステリーを起こす。フロイトも言っているが女はみなヒステリーなのである。迷惑な話である。(暴言が過ぎますね。フロイトはそんなこと言ってないし、フロイトとか言い出すあたり背伸びしてますね…。そのうえこの日記はここで終わっています。Nくんの家の話は?ちなみにNくんはぼくの同級生で、背が高くイケメンだったのでモテモテでした。彼の彼女や女友達と会う時だけが、ぼくが同年代の女性と接する唯一の機会でした)

2002年9月1日(日)
明日から学校だ。思ってたほど、それほどゆううつではないけど、また一日一日を作業的にこなす日々がはじまると考えると、しんどくもある。夕方にKからメールがきてやりとりをした。ずっとオナニーの話をしていたけど、Kがセックスの話を始めたので眠くなってきたからといって話を終えた。(Kは中学時代の友人です。もちろん男。この頃のぼくはとにかくセックスの話を聞きたくなかったのです。童貞をこじらせすぎて。楽しみにしているラジオですら、セックスの話が出ると耳をふさぐほどでした)別にKのことがうらやましいわけではないし、きらいなわけでもないけど、そういう気分ではなかった。オナニーの話を、ずっとしていたかったのに、Kはセックスの話を見栄的に話したがっているのだ。そんなものに付き合う必要はない。(見栄的なんて言葉はない。見栄をはって、ですね)大体Kの彼女は性格も悪いうえにブスである。(これはマジでブス)あんなものでよく自まんげにできるものである。でもKがいれば学校生活もまたちがうものとなっていたはずである。楽しかったであろう。ただ共学に行ったKは彼女ができて当たり前だし、男子校に行ったオレができないのはふつうだし、特別自まんすることじゃないと思う。共学で彼女ができないやつはもはやいいわけのしようがないし、どうしようもないと思う。(強がりすぎですね…。これ、自分しか見ない日記なのに誰に対してマウントとってるんでしょう?怖いよ…)



(全体的にスカしてて思春期特有の気持ち悪さが混じってヤバイですね…。自分で文字を打ち直してて気持ちが悪くなってきました。ではまた次回!たぶんないけど!)
ぼくは現在33歳、今年の12月には34歳になる。ひとつの区切りである30歳はとっくに超えて、もう中年といってもおかしくない年である。このくらいの年になると、いろいろと考えることがある。それは、細かく言えば体の不調から仕事のこと、将来への不安など様々である。

村上春樹という作家がいる。あまり紹介する必要もない、日本を代表する小説家である。彼は30歳で文壇にデビューし、日本の文学界の風景を大きく変えることになる。余談だが、彼は群像新人文学賞で文壇デビューしており、ぼくも20歳前後の頃に、この賞へ投稿して小説家を目指していたのだが、その時に目をかけてくれた編集者によると、村上春樹のデビュー翌年の群像新人文学賞では、村上春樹の文体を真似た小説が多く投稿されてきたらしい。ぼくは彼のデビューにリアルタイムで接した世代ではないが、それほど村上春樹の登場は読者たちに大きな影響を与えたということだ。

閑話休題。唐突だが、村上春樹の小説に登場する主人公は30代であることが多い。初期の学生運動へのデタッチメント的な冷めたスタイルで描かれた作品では20代前半の主人公もいるのだが、長編では基本的には40代以上をひとりの主役に据えた作品は存在しない。たとえばwikipediaに載っている彼の主な作品として挙げられているものは「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」だが、このなかでは「海辺のカフカ」を除いて、すべて30歳弱から30代中盤が主人公である。例外の「海辺のカフカ」も15歳と60歳という極端な年齢設定の物語だし、そもそも彼も年を重ねるのに、頑ななまでに30代にこだわるのだ。なぜだろうか。

実を言うと、ぼくは村上春樹が苦手であった。特に初期の左翼的転向のひとつの形として提出された、洗練された空虚さにうまく馴染めなかったのだ。そういう意味では、ぼくは村上春樹のあまり良い読者ではなかったかもしれない。「ねじまき鳥クロニクル」以降の、いわゆるデタッチメントからコミットメントへの転向があってからの作品はそれなりにおもしろく読んだが(この時代、村上春樹は「アンダーグラウンド」というサリン事件の被害者へのインタビュー集を発表している)やはり、ぼくは村上春樹を人気作家のひとりとして読んでいるだけで特別視していたわけではないかもしれない。

村上春樹の小説が真に迫って、その魅力を感じるようになったのは30歳になる直前くらいからであった。ぼくは一度読んだ小説を二度読み返すことは、あまりないのだが、その年齢になってからデビュー作から順に読み返した。「ねじまき鳥クロニクル」などは三度ほど読み返した。彼の小説を表するキーワードとして「喪失」という言葉で語られることは多い。空虚で洗練された喪失!よく知れれたことだが、村上春樹はデビュー作である「風の歌を聴け」を、英語で記したあと日本語に翻訳するという方法で完成させている。日本文学が持っている独特の「湿っぽさ」から距離を取り、あの文体を作り「空虚で洗練された喪失」を描き続けることになる。そして、おそらくは、現代日本において、それを描くのに最も適したのが30代の主人公なのではないか。

村上春樹の短編に「プールサイド」という短編がある。この小説の主人公は35歳であり、その年齢を人生の折返し地点として捉え、裕福で恵まれた生活を送りながらも、プールサイドで虚しく涙を流すという話である。この小説では、厳密に涙を流した理由は描かれていないが(理由を描くなら小説など描く必要はない!)解釈としては、ありえたであろう人生の可能性は大きく失われた齢になり、逆に今後の未来は厳しく制限された、その人生の可能性の喪失によって涙を流したと解釈されている。たとえば、生まれたばかりの赤ん坊は多くの可能性に満ちている。学者になるかもしれないし、スポーツ選手になるかもしれない。しかし年齢を重ねるにつれて、それらの可能性はすり減っていく。勉強に躓くかもしれないし、運動神経が悪いかもしれない。人生の岐路、たくさんあった道は徐々に減っていく。無情に、夢は現のなかに消えていく。そして『ありえたかもしれない未来の数』と『今後ありえるであろう未来の数』が逆転するのが、おそらく30代なのである。

もちろん、人によってはもっと早いかもしれないし、遅いかもしれない。多くの人間は20歳前後で就職するし、もはや終身雇用などあってないようなものだし、結婚する人も少なくない。だから、30代という年齢は比喩に近いが、それほど遠くもないだろう。いまの日本において30代の男性というのは、それほど未来の選択肢があるわけではない。転職するにしても年齢制限に引っかかることも多いし、そもそもそれまでの経験や知識に偏りもある。恋愛でも、この年になれば基本的には結婚を前提とした付き合いとなるだろう。もはや岐路は数えるほどしかない。この岐路の数こそ問題なのだ。そして村上春樹は、その失われた可能世界を愛でると同時に苦悩する。

もはや30代は後戻りもできなければ、やり直すこともできない。後悔していることもあれば、だからといって前に進むには岐路は少なく、どの道も茨道ということもある。これは極端な考えかもしれないが、まったく的を射ていないわけでもないだろう。少なくとも村上春樹はそう考えている。喪失と再生!失われたものは多く、だがそれを取り返すこともできない。そういう年齢なのである。

しかし、だからといって人生は続くのである。村上春樹に批判的な評論は珍しくないが、その多くはとどのつまり「喪失したからなんだというのだ?人生とはそういうものだし、皆そんなことは織り込み済みで生きているのだ」ということである。しかし、それがうまく咀嚼できない人間もいるのだ。でなければ、純文学作家であれだけのセールスを叩き出せるだろうか。村上春樹の作品売上は、ただのファッションや流行として片付けるには無理がある数字だ。もっといえば、村上春樹の作品が世界的に読まれるのは近代化した先進国の成人が陥るアイデンティティクライシスを描くからではないか。

今年で村上春樹は70歳である。もはや高齢者であり「プールサイド」で描かれた人生のリミットの年齢である。彼はもうなにひとつ悩んでなどいないかもしれないし、プールサイドで涙を流すようなこともないかもしれない。商業的に文筆活動をしてるだけの可能性もある。それはわからない。ただ彼が描いた問題は、いまの、33歳のぼくに強く刺さるのである。もう、なにひとつ引き返すことはできない。だからといって前に進むほど強くもなれない。人によっては、ただの甘えだと断罪するだろう。しかし、そんな断罪がなにを解決するというのだろう?たぶん、ぼくは一生、プールサイドで泣くことになる。それが何の意味もないとわかっているにもかかわらず。

その馬は、3歳の快速自慢を決めるNHKマイルカップをレコードで優勝し、次の冠を東京優駿に定めていた。

 

とはいえ馬券師たちはその強さを認めつつも、全幅の信頼を置いてはいなかったと思う。ダービーの単勝は3倍台だった。

 

しかしその馬はまるであざ笑うかのように、観客たちに凄まじいパフォーマンスを見せつけた。

 

 

キングカメハメハ。

 

 

当時すでにサンデーサイレンス(以下SS)の子どもたちが競馬界を席巻していたが、この馬は父Kingmanbo。あのエルコンドルパサーの父でもある大種牡馬だ。

 

そのエルコンドルパサーの早逝もあり、SSの血が入っていないキングカメハメハもデビュー前から種牡馬として期待されていたらしい。

 

 

まぁ、そんなことはキングカメハメハのことを多少なりとも知っていれば基礎常識に近いものなので、このくらいにしておく。

 

書きたいのはキングカメハメハと僕の思い出である。

 

実は僕はキングカメハメハの現役時代をほぼ知らない。競馬自体をあまり真剣に見てなかったのだ。

 

だから、僕の感想はキングカメハメハの子どもたちが主となる。

 

キングカメハメハの子どもたちというのは、意外とSS系と交配されていない。

 

三冠牝馬アパパネ、超良血ルーラーシップ、世界のロードカナロア。ダートの帝王ホッコータルマエ。

 

最近ではラブリーデイやドゥラメンテはSSの血が入っているが、意外と活躍馬にはSSの血が入っていなかったりするのである。

 

これは意外といえば意外で、当然SS系との配合も多く試されているのだが(というかキングカメハメハを持ち込んだ時点ではそう考えていたはずである)不思議なことでもある。

 

ここからは想像に依るが、キングカメハメハの子どもたちは、来たるSSの血の飽和へ対応するべく、種牡馬を見越して配合されたのではなかったか。

 

同時期の種牡馬のライバルとしてディープインパクトがいる。しかしディープインパクトの配合には、あまり種牡馬的な期待というより競走馬としてのクオリティを求められているような気がしていた。

 

それはディープインパクトがSSの直系ということもあったろう。結局、ディープインパクトの後継種牡馬というのは難しいところがなくもない。

 

それと比較して、キングカメハメハの後継は、すでに結果を出していてSS系と合わせやすいロードカナロアやルーラーシップもいるし、少し配合に難はあるもののドゥラメンテもいる。

 

 

ディープインパクトとキングカメハメハは平成後期の二大種牡馬である。

 

競馬はブラッド・スポーツと呼ばれるが、意外と血を残すのは難しい。

日本で数十年に渡って残っている血というのはサクラバクシンオーから遡るテスコボーイの血くらいだが、それも傍流ではある。

 

ディープインパクトとキングカメハメハ。

このニ大巨頭が相次いで死んでしまった。

 

今後、日本競馬の血統地図がどうなるかわからないが、個人的にはディープインパクトよりもキングカメハメハに軍配が上がるのではないかと思っている。

 

とにもかくにも、これからの競馬界も楽しみではある。

場合によってはSS以前の競馬界のようにいろんな血統の馬が馬柱に名前を並べるかもしれない。

 

それはそれで、とても楽しみなことではある。

 

 

キングカメハメハ。

 

天国から競馬場を眺めながら安らかに眠ってほしい。